【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】

【テーマ:仕事を通じて、かなえたい夢】
二足のわらじ
京都大学工学部地球工学科  山 口 雄 也  21歳

「この港、父さんが作ったんだぞ。」

土木屋の父は現場によく連れて行ってくれた。その職業が「コウムイン」だと知ったのは十歳で、あれ以来僕は漠然と「コウムイン」に理想を抱いてきた。公の為に、何か後世に、それも地図に残せる仕事ができれば素晴らしいのではないか。小四にしては壮大な将来の夢だった。

そして時は流れた。背中に憧れた少年は、いつしか青年になり父を超えようと思い始めた。それは思春期と反抗期を同時に迎えた若者の多くに共通する野心のようなものだった。僕はどうしても国を支える土木に携わりたいのだ、そして父を凌ぐのだというその一心で懸頭刺股し、3年前遂に京都大学の門を叩いた。

大学での学びは実に素晴らしかった。第一線で研究される先生方の講義と、それを全身で吸収しようと志す同級生らに触発される日々。教室内を飛び交う単語が専門性を高めるたび、僕はもう僅かに手を伸ばせば夢が掴める所まで来たのかと、そう胸騒ぎさえした。

しかしながら、転機は突然に訪れる。そんな順風満帆な大学生活を謳歌していた矢先、咋夏のことであった。ある日俄に、僕は病に伏して京大病院に緊急入院したのだ。ハタチにして人生の崖に立たされた。


病名、急性白血病。


青天の霹靂であった。ひとりで告知を受け、絶句した。トイレへよろめき逃げると、鏡の中に白血病の自分がいた。嗚咽が止まらなかった。俺はもう死んでしまうのか? と問う。哀しさよりも情けなさが込み上げる。まだ何も成し遂げていないのに。洗面台を幾度も殴った。

その日より半年間、容赦ない治療に呻吟する日々であった。モルヒネを求めて叫び、抗がん剤と放射線で髪は消え、身体はボロ雑巾と化した。それでも僕は夢を諦めなかった。無菌室で書き上げた欠席分のレポートは百枚に及んだ。

秋も終わろうとする頃には骨髄移植までこぎつけた。術後経過は良好で、僕は運良く年末に退院できた。生かしてもらったのだ、何か新しいことに挑戦しよう、と燃えた。

そんな折、地元の区役所の宿日直業務の学生募集を知った。公務員の職を窺い知れると思い応募した。面接の結果採用していただいた。想像していた堅さは無く優しい職場であった。

国家公務員試験も受けた。刻苦勉励の末、総合職工学区分の一次試験を突破した。

若年者のがん患者会にも複数参加した。近年、厚生労働省も AYA 世代と呼ばれる若年がん患者の支援、とりわけ就学就労問題の対策に乗り出しており、その情報交換をする上でも有意義だった。出会っ

た一人は20代で京都府職員をする傍ら小児・AYA がん患者の交流会を定期的に主催されていた。手伝いを願い出ると快諾してくれた。さらに京大病院の院内学級にも携わる運びとなった。闘病する高校生の眼差しには心打たれた。

こうして僕には新たな目標が生まれたのだ。「自身の経験を活かし、働きながら若年者のがんサポートをすること」である。

ところが、その実現には時間がかかりそうだ。僕は国家公務員試験の二次試験を受けられなかった。再発である。そしてこの文章は、やはり無菌室で書いている。先日再移植を行ったが、予断を許さぬ状況だ。

夏には大学院入試を控える。就活にも大きな壁があるだろう。既往歴は不利になると患者会で聞いた。区役所業務にも穴を開けてしまった。僕自身の問題も山積みだ。

しかし諦めるものか。

がんを克服し、働きたい。そして自らの生き様で AYA の仲間を励まし、交流を通じて支え合うのだ。地図に残る仕事をする傍ら、人の心に残る「無形無償の仕事」も行って、課題の多い我が国の AYA 世代対策の一助を担いたい。本職とボランティアの二兎を追う。

今、僕の心臓は多くの献血者の愛によって動いている。そして何千万円もの医療費が投じられている。感謝してもしきれない。


だからこそ生きて、働いて、恩返ししたい。

僕を生かしてくれたこの社会に、そして国に。

二足のわらじで。

何としても、何としてもだ。

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