【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】
私の母親は心の病にかかり、遺書もなく突然自ら亡くなっていった。今から九年前だった。母がまだ必死に生きようとしていた時、その姿を見て母の病気に少しでも関わりたいと思い、臨床心理士になる事を目指して大学に入学した。しかし、心理学を学び母の病気の根源を “理解してしまう” につれ、苦しくなっていった。「本当に向き合えるのか、自分が潰れてしまわないのか?」と自信を無くし結局心理学専攻から文学専攻に変えた。その何か月後かに母は亡くなった。あのまま心理学を専攻していればどうなっていただろう?何かが変わったのだろうか?周りの支えもあり、元々好きだった文学をその分たくさん勉強した。その代わり将来の夢は漠然としたまま就職活動に突入した。そして学生時代アルバイトをしていた経験から塾講師という道を選んだのだった。
塾という場所は不思議だ、と毎日必ず感じる。子ども達は学校の授業を終えてからさらに勉強するために夕方から、または夜から、塾に来る。挨拶は「おはよう」ではなく「こんにちは」や「こんばんは」だ。大概の子が学校終わりで少し疲れた顔をしている。昨晩のテレビ番組の話よりも、今日一日学校で何があったかが生徒達の主な会話である。中には明らかにしょんぼりとして元気がない子がいる。声をかけても大体は「何でもないんよ」と返ってくる。友達関係か、家庭環境か、学校生活か。もしくはただの疲れか。「言えることなら何でも言いなよ」と私は返す。寄り添うが、寄り添いすぎても駄目かも知れない。私は生徒達の様子を観察し、話を聞けるなら聞き、言いたくなさそうなら見守る、そして授業をし、帰りは「明日の学校も頑張ってな」と声をかける、そんな存在、そんな仕事なのだ。
ふと考える。私との関わりで、どれほどの影響をその子の人生に与えられるのだろう。ひとつ思い出深い出来事がある。ある日、ある女の子の生徒が泣きながら塾に入ってきた。いつも明るく人懐っこい子だ。私は咄嗟に抱きしめて「どうしたん」と言いながら頭を撫で、仕切りのある部屋に移動させた。その子は学校の帰り道、涙を必死に堪えながらちゃんと塾に来て、私を見て気が緩んで、やっと泣いたのだった。自分でも泣くつもりじゃなかったのに、という泣き方だった。泣き止むまで私は隣に座っていた。彼女は結局、何があったのかは私に言わなかった。ただ「ちょっと疲れちゃって」、とそれだけを私に言った。涙をふいた後のティッシュが彼女の手で揉まれているのを見ながら「そういう時、あるよな」と私もただそれだけ言った。西日が差し込んで私の胸元のボールペンが反射して光っていた。そして私たちは多分、困ったような照れたような同じ顔で微笑み合った。小さくても大きくてもその子を悩ませる何かが、まろやかに消えていきますように、と願った。
塾は志望校合格を目指し勉強のサポートをする場所だ。いっぱい知識を蓄えて、将来の可能性を出来る限り広げて欲しい。知識は生きる力になるのだから。
ただ、私は、生徒達がもっと大きくなって、すっかり大人になった時、私との本当に何気なくくだらない会話や、星や月がとても綺麗だったと一番に教えてくれたこと、途中で雨が降ってきてびしょ濡れで校舎に入ってきてあまりの濡れ具合に一緒に笑ったこと、そういう事を、生徒が成人してさらに成長し結婚して子どもが出来た時、本当にいつでもいい、寝る前でも、ふとした時に私とのやり取りを思い出してくれたらいいな、と強く思うのだ。
生徒との触れ合いを通して、「あんなに悩まなくて良かったんだよ」と、「大丈夫だよ」と、亡き母に伝えたいとどうしても強く思う。たくさんの可能性を持って “今” を確かに生きる生徒達が、悩みながら歩んでいく道すがら、私が少しでも存在していれば。「あんなこともあったな」とクスッと笑ってくれれば。きっとそれは私が今考えうる一番幸せな夢だと思っている。