【 入 選 】
「ありがとう」。そんな嬉しくなれる言葉を、なぜ私は今まで大切にしていなかったのだろうかと痛感した瞬間がある。
私はこの2年間、100円均一の商品を取り扱う店でアルバイトをしており、そこでは様々なお客様が来店する。働き始めたころは、レジ接客、商品の場所、取り扱い方を覚え、陳列することが最優先であった。「マニュアル」というものにはどの頁にもお客様第一、お客様のため、そんな言葉があったにもかかわらず、私はそうしなかった。当時は仕事に慣れることが私の精一杯だったのだ。
気が付けば半年が経過し、作業に慣れた私は、精一杯だった作業も単純作業になり、感情がなくなった機械のごとく働いていた。「ありがとうございました」と何度も言った。清算を済ませた客に、商品について尋ねてきた客に。自分では感謝しているつもりだった。
ある日、小さな子どもを連れた母親に、数字のフィルムバルーンがあるか聞かれた。母親はその子どもの誕生日だから使用したいとも言った。しかし、彼らが求めていた数字の「2」のフィルムバルーンが売り場に置いていなかった。私は在庫置場の奥底に隠れていたその商品を取り出し、急いで親子へ渡した。親子は喜び、私に「ありがとう」と言い、レジへ向かった。
日常では、このようなことは少なくない。しかし、この時のことだけは鮮明に覚えている。なぜなら、フィルムバルーンを手にした子どもに満面の笑みで「ありがとう」と言われたからだ。しっかりとした言葉ではなかった。それでもその子の喜びに満ち溢れた顔とその言葉を聞いたとき、私は初めて仕事をしていて嬉しいと思えた。そして今までこんな気持ちになれるくらい自分はお客様に感謝をできていただろうか、と自分を顧みた。間違いなくできていなかっただろう。自分がまだ青いと痛感した瞬間だった。
感謝をする。ごく当たり前のことであるが、それを当然のことのようになせるのは容易くない。混沌とした社会の中で、感謝の気持ちを忘れ続けず働き続けることは、実は難しいことだと私は考える。ましてや、そんな中でお客様から直接感謝されることなんてあるだろうか。
私は今後、どこかの企業に就き、何かしらの仕事をこなすようになるだろう。もしかしたら誰からも見えないようなところで働いているかもしれない。それでも、どこかのマニュアルにもあったように、どんな仕事でも、それが顔の見えない誰かのためだとしても感謝してもらえるように、手を抜かず仕事をする社会人であることが私の夢だ。