【 入 選 】
私にとって働くことは、父の背中を追うことだった。
父と子でありながら師匠でもあり、商売敵でもある。
私と父の関係は、少々複雑なものになってしまった。もっとも、今はそうなれたことに喜びを感じている。
物心ついた頃には父は原稿用紙に囲まれていた。
小さい物置のような部屋を書斎にしていつもペンを走らせるか、本を読んでいた。
あの空間は子供心にワクワクした。滅多なことが無い限り入ることを許されなかった場所ではあったけれど。
足の踏み場も無いくらいに散らかった紙やペン。山積みにされた色とりどりの本。知らないもう一つの世界がそこにはあった。
狭くて、埃っぽいあの書斎で作業をしている父の背中は、私にとっての原風景の一つだった。
父に気が付かれないよう、忍び込んで本を読む。
間違いなく冒険だった。
見つかれば罰をくらって痛い目を見る。見つからなければ、お宝を味わえるのだから。
そうやって私は原稿用紙と本に囲まれて育ってきた。
学生生活の最後の年を迎え、友人たちが続々と進路を決めて行く中で、私だけが自分の道を決められずにいた。
特別でありたい、人とは違うという自意識だけが膨れ上がってそれを制御する術を私は持っていなかった。
ただ過ぎていく時間。何もしなくても卒業という期限だけは刻々と迫ってきた。
有り体に言えば、馬鹿だったんだと思う。ある日レポートか何かを友人に褒められた。
それが私にしか表現できないものがあるはずだと、父と同じ道を歩むことを決めたきっかけだった。
一応言い訳をしておくと、就職活動は出版社やテレビ業界などに絞っていた。
当時の私は、そっちの方面にいけば無理やり誰かに何かを売りつけなくて済むと考えていた。
今となっては、どこにだってやりたくない仕事があることくらい想像ができない自分を恥ずかしく思うばかりだ。
代わりのいない存在になりたかった。
何かを生み出す人間になれば、そうなれると信じて疑わなかった。
父にこの道に入ると打ち明けた時、ボロクソに言われた。この反応は意外だった。
面食らってあまり話さなくなった私に父は畳み掛けるように、言葉を紡いできた。
ここまで頑な態度をとる父を見たことがなかった。
ようやっとの思いで食い下がり、説得した末に言われたことを今でも覚えている。
私が師としての父から言われたたった一つのこと。この世界は、甘くないよと。
当時の私は、覚悟がなかった。
その言葉を脅しくらいにしか思っていなかった。
思い起こせば、幼い頃父が眠っているところをほとんど見たことがなかった。あれほどの時間を費やしても世に出るものは数えられる程度で、努力や費やした時間が報われるとは限らない。
誰かに届かない文章はただの文字の羅列でしかない。報われたとしても、また次に踏み出さなければ沈んでしまう。
私が足を踏み入れたのはそういう世界だった。
自分のために何かを生み出せる人を天才と呼ぶのだと思う。少なくとも私は違ったみたいだ。
たまたま友人のために書いたものが、人の目にとまる機会があった。あれがなければ、どうなっていたか想像するだけで恐ろしい。私が自分のために書いたって、誰かを楽しませるものになるわけがなかった。
人を笑わせること、楽しませること。
娯楽を考える仕事であるのに、父はいつも悩んでいた。同じ道に足を踏み入れなければ、きっと一生理解できなかった。
今でも遥か先を行く父にいつか追いつける日が来るのだろうか。
ただ同じ方向だけは、向くことができたと思う。
私にとって働くことは父を追うことだった。けれど、今はそれだけではない。
待ってくれる人のために、そして見られても恥ずかしくない背中であるために。