【 佳 作 】
一体自分は何であるのか、何になりたいのか
私は、自分の進路を探すにあたって、大変この曖昧な自我同一性との間で苦労した。
そして、私のような経験は多くの人が経験しているまたは、経験したことがあると思う。
現に、私は今も自分との自我で悩んでいる。
でも、進路、将来の仕事を考え始めたあの頃よりは幾分も、ひと段落ではあるが、自我において、決着がついた気がする。
高校一年生の頃、新しい高校生活に胸が高まっていたあの頃、急に迫ってくる文理選択、自分を見つめるということ。私は困惑した。
今まで、部活を一生懸命頑張る人と、部活で頑張ったことのない自分との間で劣等感を抱き、自分の存在から逃げてきた。そんな私に、進路選択は自分という存在のあり方について、迫ってきた。はらたくことの意義が私に迫ってきた。
そんな自分から逃げるように、私は近所のボランティアに参加した。
それは所謂、学校終わりの子供達が、共働きの親がおり、家だと寂しい思いをさせるのでみんなで放課後に遊ぶという形のものだった。
最初は楽しく子供達と遊ぶだけだった。最初はただ子供達と遊ぶだけだったが、回数を重ねていくうち考えることが浮かんだ。
私もその子供達と同じように、親が共働きだったので、放課後は友達と学校の近くの施設で遊んでいた。
自分との経験を重ねて、彼らに思うことがあった。それは、たしかに友達と遊ぶのは楽しいのだが、時々母親が家にいる友達を見て羨む。
自分はひとりで、寂しい存在なのではないかと不安になる。
自分の経験を思い出し、私はそんな思いをさせないように、工夫した。児童託児所でしかできないことを存分に子供たちに伝えた。または、家で母親と子供だけだとできないことを伝えた。みんなと遊ぶことで得られる、協調性、責任を負うこと、みんなで考えること、これらが子供達に備わるように、鬼ごっこやチーム対抗戦リレーなどもした。
気づけば、子供達の遊びのことばかりを考えていた。
わたしはその時にすでに気づいていた。
仕事とは、お金を稼ぐ目的ではない、
仕事とは他人の幸せを生み出し、その幸せにより、自分を幸福にすることであると。
そのことにおいて、仕事とボランティアは、表面的には全く異なっているかもしれないが、根底にあるものは、本質となってるものは、全くおなじなのではないか。
そこからは早かった。仕事の意義をまがりなりではあるが、掴めたわたしは、ボランティアの経験から社会のいろんな場面にある事象の仕組みを批判的に捉える社会学がやりたいと思った。そして、かつ、家族社会学がやりたいと思った。社会学で学んだことを生かして、マスコミ関係で働き、家族や子供の真実を伝えたいと感じるようになっていった。
まだまだ、自分という存在は不確かだし、将来もすごく薄ぼけている。
以前の私はこの状況をあやんでいたが、今では、仕事の意義を掴めたので、以前より自信がもてている。
何度もいうが、仕事とはお金を稼ぐ目的ではない、そして、人は金を稼ぐ、生産性のある道具ではない。
仕事とは、他人の幸せを作る道具なのだ、
自分をたしかにする道具なのだ。
自分を見つけるとは、他人を見つけることなのだ。