【 佳 作 】
「ワーク・ライフ・バランス」?「ライフ・ワーク・バランス」?
昨今よく耳にするこの言葉の正しい意味が自分にはしっくりこない。もちろん言葉として言いたいことは分かる。仕事一辺倒で窮屈になっている人が多いからもう少しバランスをとろうよ、自分で生活のバランスをとれるような社会にしていこうよ、ということだろう。その方向性自体は否定しないし、人々が希望を最大限実現しながら、柔軟に働くことができればそれは素晴らしいことだろう。
しかし、私が思うことは本当に自分の人生を生きるということを考えると、「ワーク」と「ライフ」は簡単に二分できるものではないだろうということである。日常語にもっと近づければ、「仕事」と「プライベート」の時間という単純な区別はできないということである。
私は高等学校の教師になって3年目を迎える。その中で思うのは、生きるとは突き詰めて考えれば、自分の持っている時間を何にどのくらい注ぐのかに尽きるということである。
私の「仕事」は、授業案を考えて実践したり、生徒と共にベストな方法を考えたり、学校生活が円滑に進むために事務的な処理を行ったりと非常に多岐にわたる。また放課後や土日になれば硬式野球部の顧問として指導を行い、スポーツコーチのような役割も求められる。それらに費やす時間は膨大であり、私の時間のほとんどを占めている(先ほどの二分法に従えば「プライベート」の日は月に1日あるかどうかという状況である)。
しかし、私は教師になってから「今日は学校に行きたくないなぁ」などと思ったことがただの一度もない。毎日、「今日はどんな授業になるだろう」、「生徒にとって、自分にとってどんな学びのある一日にできるだろう」ということを考えながら学校に向かっている。
こんなことを自分と異なる職業に就く友人に話すと、いつも「キレイごとだ」とか「自分に言い聞かせている」とか「ワーカホリックではないか?」などと言われてしまう。しかし、実際に私の感覚としてはそうなのだ(もしかしたらこの文章を読んでいる人にも心配されてしまうかもしれない)。
もし「仕事」がお金を稼ぐということを目的とするなら、私は自分のしていることを「仕事」だとは思っていない。もちろんそこに責任感が伴っていないわけではないし、思い悩むこと、上手くいかないこともたくさんある。でも、何かに迷った時に私は、自分のしていることが社会的な価値を生み出しているかを振り返るようにしている。社会的価値を定義することは難しいが、私はシンプルに「これがボランティアであってもしたいと思うか?」と問いかける。授業についても、部活動の指導についてもこの原点に戻ってみる。そうすれば、自ずと今なすべきこと、正しいと思える道は見つかるのである。
そして、「仕事」と「プライベート」に分けられない理由の一つは、大きな喜びや充実感がそこにあるからである。自宅で過ごす時など、いわゆる「プライベート」の時間でも私の頭には授業のことや生徒のことがいつも片隅にある。だから、例えば読んだ本や観たテレビの内容がつながって、ふとした時に良いアイディアが浮かび、携帯電話に慌ててメモしたり、一気に教材を作り始めたりすることがある。その時、私は心からわくわくしているし、確かな充実感を覚える。私の得た全てのものが、私の「仕事」につながり、喜びや充実感を生みだす。
「仕事」と明確に分けて「プライベート」を充実させるとか、お金を稼ぐために働くという考え方を全く否定するつもりはないし、自分の様な考え方をみんなが持つべきだとも思わない(お金だって多いほどいいのは当然だ)。ただ先ほども述べたように、自分がどう生きたいかを突き詰めた時、それはきっと自分の持っている時間を何にどれくらい注ぐのかという選択になる。そして、その価値に見合うものを見つけるということが「働く」ということなのだと思うのである。