【 佳 作 】
私は、重度の心臓病をもって、生まれてきた。0歳と1歳の時には地元の大学病院で、4歳の時には大阪の大きな病院で手術を受けた。手術によって、2階にすら上がれなかった状態は改善された。だが、学校での体育はほとんど見学であったり、手術で右腕の血管を使用したため、右腕にほとんど力が入らないため重いものが持てなかったり、低身長(157cm)になったりと、周りと比べて出来ない事が多く辛い時期もあった。一度でいいから、思いっきり走ってみたい、マラソンをしてみたいという気持ちは今でもある。幼少期は、入院をしているか、通院をしているかで、病院にばかり行っていた。入院の時には、家族と離れるのが辛く、毎晩のように泣いていた。また、4歳の時の心臓手術の後遺症で、声帯麻痺となり、左側の声帯が麻痺して、小さなかすれた声しか出なくなった。また、手術のため、胸骨が隆起して、周りから「人造人間」とからかわれたこともあった。心臓病やかすれた声しか出ないことで、将来なりたくてもなれない職業も多くあり、悔しい思いもした。障がい者枠という知識もなかったため、自分はもしかしたら将来、就職をすることができないのではないかと絶望して、泣いた夜もあった。
大学に進学すると、その大学の附属病院の耳鼻科の先生に、声帯麻痺の手術ができる先生が在籍されており、21歳のときに手術をして、17年ぶりにもって生まれた声を取り戻すことができた。大学の研究室では、幼少の時に、喘息で苦しんだこともあり、大手企業との共同研究で、空気清浄機のフィルターの研究を行った。東京大学大学院への進学を教授にすすめられたが、声が出るようになったことで、同じように障がいや後遺症で苦しんでいる人の力になりたいという思いが強くなった。また、大学進学時は、「声」が勝負でもある教師をあきらめていたが、挑戦してみたいという気持ちになった。そのため、諦めていた、特別支援学校の教員になりたいと考え、鳴門教育大学大学院 特別支援教育専攻に進学した。そして、教員採用試験を受験し、地元の特別支援学校で教諭として勤務している。まだまだ未熟であるが、障がいのある子どもの視点や保護者の視点からも物事を考えることのできる魅力のある教員になりたいと思う。
仕事探しを通じて気づいたこととして、自分が短所だと思っていることは、貴重な経験であるという場合がある。その経験を活かすことで、思いがけないことで、自分の仕事に結びつくことや、役立つ場合があるということに私は気づいた。また、人生、何が起こるか分からないということにも気づかされた。そのため、志を高くもって、自分の道を、自分だけにしか歩けない道を、探して進むということが大切であると感じている。