【 佳 作 】
私は、先天的な脳機能の特徴を原因とする、ADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断された、発達障害をもった人間です。
幼い頃から、周囲より「落ち着きのないおしゃべりな子」、「おっちょこちょいでぼーっとした子」、「頭のかたい気むずかしい子」と言う評価を受け、自らもそれを自覚して育ちました。
今、学生時代を振り返ってみると、いつもどこか浮ついて不安定で、人生に対する現実感がなく、暇さえあれば物語の中の世界に思いを馳せている、そんな子供だったように思います。
じっとしていること、静かにしていることが苦手な多動性。自らの考えに固執して柔軟な視点や思考が持てず、結果的に忘れ物やミスを繰り返す、過集中と不注意。思いつきをすぐ口や行動にしてしまう衝動性。
これらの特性は、成人して社会に出てからも続き、特に問題だったのは対人関係で、融通がきかない考え方と不用意な言動から、同僚の皆を困らせ、多くの方に迷惑をかけてしまいました。
毎日毎日、劣等感と自己嫌悪のはざまで、私は私が、自分を全く肯定できない、自分にまるで価値を見出せない人間になっていることに気づきながらも、それを諦めとともに受け入れていました。
そんな時に出会ったのが、私と同じ発達障害の方や、発達障害のお子さんをもった親御さんが集まるインターネット上のフォーラム。
感情にまかせて自らの苦悩を書き殴るように綴った、ぐちゃぐちゃの乱文にも関わらず、たくさんのあたたかく丁寧なコメントをいただきました。
「特性は特徴、特徴は個性だよ」
「ことばを大事にするのは心を大事にすると言うこと」
「物語が好きなら、まず自分という物語を好きになろう」
寄せられたコメントはどれもシンプルながら的確で、暗い息苦しさ、生きづらさに日々を支配されていた当時の私は、まるで長いトンネルを抜けて目の前がパッと明るくなったかのように感じました。
そして同時に思わされたのです。
私は今まで、どれほど「ことば」を、ないがしろにして生きてきたのだろう。
私が好きな物語たちだって、「ことば」の集まりでできていたと言うのに。
「ことば」のちからに背中を押された私は、あらためて自身とよく向き合い、「自分の興味のある事や、成果の分かりやすい作業には集中しやすい」という、みずからの特性に合った仕事を模索しはじめました。
正直なところ、ADHDや発達障害そのものに対する世間の認知はまだまだ十分ではなく、面接の際などに、特性についての詳しい説明をいちから求められることもあります。
伝え方が悪かったのか、説明したとたん面接自体を中断されて、不採用になってしまったことも、率直で辛辣なことばに涙したこともあります。
ことばによって人を傷つけた私、ことばによって人に傷つけられた私。
それでも私は、私を救ってくれた、「ことば」のちからを信じています。
「ことば」のちからで変わることができた、私を信じています。
現在は、インターネットを通じたお知り合いのご好意ではじめさせて頂いた農作業のお手伝いのかたわら、今までの読書経験を元に、コピーライターや作家を目指して勉強の毎日です。
「ことば」を意識するようになったおかげか、衝動的な言動も以前に比べて改善し、円滑なコミュニケーションも取りやすくなりました。
作物を育てるのは大変ですがやりがいがあり、日々成長していく植物たちのたくましい姿に自分を重ねる事で励まされ、創作の原動力となっています。
私にとって働く事とは、世界に向かって、自分を表現すること。
自分と向き合い、自分を理解し、自分を日々育てていくこと。
私は、私という植物に花を咲かせ、実を結ばせてあげたい。私という物語の結末を、ハッピーエンドで迎えたい。
私がことばに救われたように、今度は自分が同じような悩みを抱えた誰かを、ことばで救いたい。
いつかの日か、
とどけ、私の、「ことば」。