【 奨 励 賞 】
皆さんは、「精神疾患」という言葉を聞くとどんなイメージを持つのだろう。近年、企業にストレスチェックが義務化されたり、過重労働による心因性の病気に罹る人が増えたりと、身近な問題になりつつある一方で、やはり根深い偏見や誤解があるように感じられる。何故そう思うのか。それは、私自身が当事者であったからである。
私が初めて精神疾患の診断を受けたのは、大学4年生の秋のことだ。そこから徐々に悪化していき、就職は諦めざるを得なかった。周りは社会人となり、活き活きと働いている中、焦りや葛藤がありながらも治療や休養をすること1年、心身ともに状態が落ち着いてきたこともあったので、就職活動を始めるとそこには大きな壁が立ちはだかった。企業での面接で空白の1年の説明を求められ隠さず説明すると、面接官の顔が明らかに変わったり、「当社では厳しい。」と告げられたりするのである。結局、精神疾患のことはオブラートに包んで面接を受けることで、無事に就職することが出来た。これが現実である。しかし、企業側を責めることは出来ない。事実、私は就職後に精神疾患を再発し、退職せざるを得なかったのである。そのため、偏見や誤解がなくなったとしても、精神疾患が社会的にリスクとみなされることは重々承知している。現に平成30年4月から障害者の雇用義務化に精神障害も対象となったが、普遍化するにはかなりの時間が必要にも思われる。また、リスクであるというのは、企業側だけでなく当の本人にとっても同じことだ。仕事でも私生活でも様々な制約が発生したり、結婚や出産といった人生の大きなイベントで精神疾患が弊害となったりする。
では、そういったリスクがある上で働く意味とはなんだろうか。私が自らの経緯を通じて思うことは、「働けるということは幸せである」ということだ。「自分が必要とされて働くことが出来、対価として給料を頂く」ことは、健常な人からしたらごく当たり前のことだろう。寧ろ、「働かなくて良いのであれば働きたくない」と思う人も多いのかもしれない。しかし、満足に働くということが叶わなかった期間が長かった私にとっては、働けるということはそれだけで幸せなのである。現在は治療や休養を経て寛解し、事務職の正社員として6年目の春を迎えたが、働き続けられることに嬉しさを覚えることがある。そもそも、働くとは、社会の中で人間らしく幸せに生きるための方法とも言えるのかもしれない。
今、私が望むことは、精神疾患だけでなく LGBT、貧困、家庭問題など様々な理由で社会から疎外感を感じている方々が、もっと自然に参画できる社会になってほしいということである。その為にも、働くということがあらゆる人にとって自由に選択できるよう、法律や制度を整えるだけでなく、自分と異なる他者を認められる世の中になってほしい。そして、いつかこの文章を実名で書けるような社会になることを心から願う。