【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
彼女は目を合わせず声も発さない人で、にべもなく注文表に指をさしていた。しかしそんな人はいくらでもいるので特に気にとめず、私は注文されたオムライスをテーブルに置いた。
オムライスを食べる時、髪をかけた彼女の耳には補聴器がついていた。小学校の時、補聴器をつけていた子がいたのを思い出しすぐに彼女は耳が不自由な人なんだとわかった。休憩中、店長に「あの補聴器をつけた人よく来ますね。」というと、「あー、障害がある人なんだよね。」とこちらを振り返らずに言った。
バイトが終わり、家に帰るとなんとなく「聾者」と調べてみた。するとその関連で手話の記事が出て来たので暇つぶしに読んで見ることにした。もっと難しいと思っていた手話は案外簡単で、私はすぐ「ありがとう」「好き」「嬉しい」などの単語を覚えることができた。
次に彼女が来店した時、私は覚えたものを使ってみたいという気持ちに駆られ、おぼつかない手話で「ありがとう」とやってみた。 彼女はただでさえ丸い目をもっと見開いて私をまじまじと見つめ、私はと言うと、顔に血が集まっているのがわかり頬がどんどん紅潮していった。とうとう耳まで真っ赤になっていることがわかり、間違っていたかもしれない。こんなことやるんじゃなかった。という気持ちでいっぱいになり恥ずかしさで目をぐるぐると回していると そんな私の顔を見て察したのか、彼女は少しだけぎこちない笑顔を見え「どういたしまして」と返してくれた。
生きるツールとして手話を使っている彼女には申し訳ないが、私は2人だけの秘密ができたようで胃だか心臓だかが、キュッとしたのだった。その日は家に帰ってすぐに手話の勉強をした。
次に彼女が来た時、初めて来た時と比べるとだいぶ表情が柔らかくなり目を合わせてくれるようになっていた。 帰り際「またね」と手話で言うと彼女は目を細め「またね」と返し、手をひらひらと振ってくれた。
私は今、美術大学でデザインや映像を学んでいるが、それを見たり聞いたりすることは、「障害」を持っていないことが前提で作られている。私は作品を作る時、彼女だったらこれをどう見て、どう聞くのだろうと考えざるを得ない。
彼女と関わりを持つまで何かしらの「障害」と呼ばれるものを持っている人と関係を持ったことがなかったので、特に深く考えていなかった。無関心だったのだ。 小さい頃学校で、「障害のある人たちを理解することや受け入れることが大切である」という教育を受けた。しかし、彼女のことを知ってからは、その違いを「理解する」ことや「受け入れる」という響きがひどく傲慢なものに思えてならない。「健常者」と呼ばれる私たちが勝手に障害をという定義をしているだけなのだ。 彼女と関係がなかったら、きっと無関心のままだっただろうと思う。
それからも彼女は定期的にバイト先を訪れ、よくオムライスを頼んだ。ただし、彼女は目を合わせながら注文表を指差して「お願いします」の手話も付いていた。そして私たちはその度一言、二言手話で会話をした。私はお昼の賄いがオムライスのことが増えた。
そんな日々がしばらく続いたが、私はバイトを辞めることになった。彼女にそれを伝えると私が初めて手話をした時のように目を丸くして、しばらくすると少しうつむき「悲しい、楽しかった」と手話で言った。
私はまた胃だか心臓だかが、キュッとしたのだった。
名前も年齢も、どこに住んでいるかも知らない彼女。おそらくもう人生で一度も会うことはないだろう。 ただ、その彼女との記憶が私の中で今も確かに脈を打ち続けている。
綺麗事かもしれないが、将来私は一人一人が彼女のような笑顔になってくれるように仕事と関わっていきたいと思っている。