【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
S君のこと
愛媛県 山高吉仁
七十の歳を超えると、否が応でもぽつりぽつりと友人、知人の訃報が耳に入ってくる。先日は、長らく会っていなかったS君の死を知らされた。
S君との出会いは、もう六十年も前のことになる。彼は、中学一年の途中、山間へき地の学校から転校してきた。通学路が同じだったことから、私たちはすぐ友達になった。
S君の両親が病気がちで思うように働けず、そのためにS君は、毎朝五時から新聞配達をやっていた。夕刊の配達もしていたため、S君には部活動をする時間がなかった。運動能力の高かったS君はきっとくやしかったはずだが、そんな表情は微塵も見せず、いつも明るく振る舞い、少ない時間の中で勉強もよくやっていた。S君が、木のリンゴ箱にきれいな包装紙を糊ではり付け、それを本箱や机がわりに勉強していた姿を思い出す。
私とS君は、同じ高校に行こうと約束していたのだが、二年生の三学期、彼のお父さんが病気を悪化させて入院した。お母さんの辛そうな顔と医療費が家計を圧迫することを目の当たりにして、S君はどうしても進学したいということが言えなかった。S君は何日間か一人で悩んだ末、幼い弟と妹がいたため、やっぱり就職しなければならないと自分にいいきかせて進学をあきらめた。向学心に燃えていた彼の無念はいかばかりだったか。十四歳の辛い人生の選択だった。
卒業後、S君は伝を頼って大阪の塗装会社に就職することになった。昭和三十七年の三月下旬、高浜港の桟橋から何人もの友人たちと紙テープで見送ったのが、つい昨日のことのように思い出される。
それから二十数年後の四月、中学教師となっていた私は、修学旅行の引率で大阪に行ったとき、偶然、旅館のすぐそばのビルで塗装工事をしているS君と再会した。お互い、一目で分かり、びっくりしながらも大喜びした。その晩、彼は一人で旅館に訪ねて来てくれた。
住み込みで懸命に働くS君を社長さんはかわいがってくれ、二年後、定時制の高校に行かせてくれることになった。もとより、勉強が好きだったS君は優秀な成績で卒業し、その後もいろんな資格を取り、再会したときには社長の代理を任され、五人の従業員の頭となって作業を指揮していた。就職して六年後には両親と弟、妹たちを呼び寄せ、二人を高校にも行かせた。
旅館の待合室で話ができたのは、たった三十分ほどだったが、彼は心身ともにたくましく成長し、自分よりはるかに大人の風格を備えていた。十四歳のときのあの苦渋の決断が彼をこんなにもたくましたく成長させ、「艱難汝を玉にす」とはまさにこのことで、感動すら覚えた。その後、風の便りに、S君はその社長さんの後を継いで二代目の社長になったということを聞いた。あの再開の日からいつの間にか三十数年の年月が過ぎ、もう生きて再会することができなくなってしまった。
現在、ほとんどの子供は、当たり前のように高校に進学しているが、われわれ団塊の世代には、向学心に燃え、学力、能力があっても高校、大学に行けなかった者がたくさんいた。S君もその一人で、彼らの勤勉は、自らを成長させたというだけに止まらず、家族を守り、ひいては現在の日本の繁栄の礎になっているのは間違いない。そういう無名の真人たちのことを、私たちは決して忘れてはならない。