【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
祖父は、私が高校3年生だった秋に、亡くなった。聡明で茶目っ気あふれる人で、祖母が「主人に出会えたことが人生の中で一番の幸せ」と表現するのが心底納得できるような、自慢の祖父であった。しかしその死はあっけなく、大事な家族を救えなかったことに対して、私の心には「医師なんて何もしてくれない」という思いが宿った。しかし同時に本当は、「何もしてあげられなかった自分」に対してのやりきれない悔しさがあって、「だったら、誰かのためによりそえる、優しい医師になってみようじゃないか」と、反骨精神を奮わせて医学部進学を決意したのだ。あれから12年、私も医師として働いて数年が経った今、このひねくれ者が書く駄文をご容赦願いたい。
こういう表現が適切なのかはわからないが、はち切れんばかりの強い感情が腹の底からこみあげてきて、体の中に「熱い」感覚を伴って「確かにある」と感じることがある。私が医学部進学を決意した時にも「覚悟」に似た「熱く強い感情」があった。
医師という人種は、世間の人が考えているよりもずっと窮屈な「医学部」という小さな世界のなかで青春を過ごし、その世界から大海原に出ることなく暗い「病院」という施設に放り込まれ、一生の長い時間を過ごしている。日の出前に出勤し、帰るのは夜中で、はて、今日の天気はなんだったか、と思う頃には失神するかのように眠りにつく。土日も出勤。やっと病院から出られてもオンコールだのなんだのと携帯は鳴りやまない。「規定時間外は、自己研鑽」という病院のモットーのもとボランティアで身を酷使する時間のなんと多いことか。そして当然、こうして狂ったように長時間労働していると、人間誰しも心がすさんできて、後輩への理不尽な八つ当たり、子供じみたわがままも増えてくる。だから私は、医師という人間が必ずしも好きではない。
暗い話ばかりで申し訳ない。もちろん医師にも色々な働き方があって、これが全てではないが、私が身近に感じている環境は、無賃金で激務をこなしたひと昔前の医療現場とそう大きくは変わっていないように思う。なぜ今更こんなことを書いたのかと言えば、なりたい仕事に就いたものの、過酷な労働環境と、いつまでも続く途方もない進路選択という強敵を前に、情けないことに私自身思わず面食らうことが増えたからである。
私は医師という人種が大概嫌いだが、それでも何人か憧れの医師にも出会ってきた。そういう医師は皆、患者のみならず病院で働く人でも、困っている人に対して「どうしたの?」と腰を低くして耳を傾け、かつ現場での判断力に長ける。どうやったらああなれるのかなと思い、こっそり観察していると、仕事のあとにも一人勉強したり、多職種とコミュニティを持ったり、人知れず計り知れない努力を積み重ねているのが分かる。「年月が経てば一人前には誰だってなれる。そうではなく、一流の医師になりなさい。」と研修医の頃に聞いたことがある。今になってその言葉が心にしみてくる。一流への道はいばらかもしれないが、「先生と出会えてよかった」と患者が喜んで退院していく姿をみると、いばらだろうが竜巻だろうが、その道を目指さずにはいられない。
まだまだ半人前の私は、ちょっとした病院での人間関係のいざこざに傷つく日もある。実力不足で患者に迷惑をかけてしまったときなんて心がきゅっと痛んで泣きたくもなる。「では辞めればよいのではないか?お前もそのだらしない負の感情を周囲に放てばよいのではないか?」と悪魔が囁くとき、しかし、大事なのは、自分自身がどういう医師になりたいのか、という初志であり、嵐の中でも決して見失うことのないように、私は深呼吸をして悪魔に言い返す。「いいえ、私は辞めたり逃げたりはしません。優しくて腕の良い医師になりたくて、ゆっくりでも、挫けそうになっても、必ず進み続けます」。今朝もまた「いくぞ」と自転車のペダルを踏みこんだ。