【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】
咲きたい花は必ず咲く私には両親の記憶がない。 3歳になる前に両親は離婚し、母は一人で家を離れ、父は自ら命を絶ったそうだ。 育ててくれた祖母はそのことを私に隠していたが、成長して知り無性に腹が立った。 両親がいないのは時に寂しく、時に悔しいことはあった。しかしだからといって私のせいではなく、私のこれからの人生には無関係だ。聞いても落ち込んで塞ぐことはない。 だが祖母が働いてくれた家庭では、とても貧乏なことは事実だった。だから早く祖母を楽にしたかったが祖母は、高校は出ておかないとあかん、と働き続けてくれた。 奨学金をもらって高校を出て、偶然自分で見つけた小さな会社で働き始めたが、糖尿病で入院がちになり働けなくなっていた祖母。その介護で、成人した直後から苦労が始まった。今でいう認知症でもあった。自分が病院にいると言うことがわからない日があったり、介護スタッフと言い争いをして勝手に退院したりして私を随分困らせた。私は、いまで言うヤングケアラーだったのだろう。 当時は介護保険制度もなく認知症の概念もなかったが、会社の経営者や上司は、私を転勤もさせず、出張も極力させないというように様々な配慮をしてくれたおかげで何とか看病し続けられた。私もそんな会社に報いようと懸命に働いた。 その後、縁あって優しい女性と結婚し、それまで10年間、一人で担ってきた看護が二人になり、ずいぶん気持ちが楽になった。 38歳のとき祖母が逝ってしまった。悲しむ暇も惜しんで私はビジネスに役立つ勉強を始めた。中国へ進出する企業が増えていたので、これからの時代はきっと中国だと思い、仕事をしながら自費で夜間の中国語学校に3年通った。その後2年間、英語をテレビと教材で勉強した。 そしてそれらを役立てるチャンスが来た。会社が海外ビジネスを展開する人材を求めていたので、真っ先に手を挙げたのだ。妻の了解を得て、会社に恩返しするべく本社地へ単身赴任した。40歳をすぎていた。 その後10年、本社や中国、アメリカで様々なビジネスを展開し、会社に貢献させていただいた。さらにリタイアするまで3社に請われ働いた。だが、それまで私を支えてくれた妻が病気に倒れ、今から3年前、看病の甲斐もなく亡くなってしまった。祖母と妻。失ってばかりの人生だったが、看護や介護で少しは恩返しができたのかもしれない。 働く環境の中で様々なハンディを持っている人もいるだろう。でも必要以上にめげることは自分の未来を自分で摘んでしまうことになる。 また、職場とは仕事を与え生活をさせてくれるところではある。しかし、その職場に対して自分は何で貢献できるかを常に考え努力しておくと、出番は必ずやってくる。 ハンディがありながらも、その努力を惰らない者だけに出番はやってくる。不運を嘆くより幸運の受け皿を作っておかねば、自分でチャンスだと気づかないうちにさっと通り過ぎてしまう。 私は外国が好きだった。だから外国語を勉強したかった。中小企業だったその勤め先の海外ビジネス展開はまったく予想してなく、偶然その風を捕まえただけだ。だが幼いときから夢見た外国で活躍できたことは夢のひとつを叶えたことになったとともに、会社に恩返しできたことになった。 親兄弟がいなくても、或いはその介護をしていても、世間はきっと君を見放さない。へこたれずがんばる若者を放っておきはしない。 愚痴も弱音も吐くだろう。だれしもそうだ。だが、だからといって夢や可能性まで自ら捨て去る必要はない。ただいつかチャンスが来た時に、それを活かせる努力さえ怠りなければいい。 「咲きたい花は必ず咲く」という言葉が好きだ。 咲きたいと願う花は自ら根を張り、水を求める。恵みの雨を待つだけではない。大切なのは咲きたいと願い続け、根を張り続けることだ。