【一般財団法人 あすなろ会 会長賞】
子供が産まれ、転職をした。
キャラクターのエプロンを身につけて、初めて出勤した朝。ガラス窓にうつる自分を見て、ため息を飲み込んだ。
「おはようございます、今日からよろしくお願いします」
新しい仕事は、「児童館の先生」だった。
広い遊戯室には、ひっきりなしに親子が遊びに訪れる。幼い子供たちの遊びを見守りつつ、おもちゃの消毒や整頓をする。
「先生が入ってくれたお陰で、秋のお祭りの準備も間に合いそうだわ」
他の先生方は優しく接してくれ、未経験の私でもすぐ仕事に慣れることができた。
それなのに、私の心は、どこか浮かないままだった。
「にしのさんが担当で、本当に良かったです」
そんな言葉ばかりが、いつまでも胸の奥で響く。前職は、式場のウェディングプランナーだったのだ。
新郎新婦と感動を分かち合った、あの眩しい場所が大好きだった。
プランナーの仕事は、幼い子供がいて続けるには、あまりに激務だった。一生に一度の舞台だけに、代わりの利かないことばかり。担当の結婚式がある日には、這ってでも出勤するのが当たり前だった。
児童館の仕事を見つけたときには、泣く泣く、必要とされていた場所を離れる覚悟を決めた。
息子の発熱で急にお休みをしても、他の先生方のお陰で、児童館は今日も開く。
ありがたい気持ちの反面、「私が居なくてもこの場所は回っていく」という悔しさ。仕事への葛藤は、どうしようもなくついて回った。
ある日、息子と訪れた公園で、一組の親子に出会った。母親は、ふにゃふにゃの赤ちゃんを抱えて、公園の日陰をあてもなく散歩している。
「こんにちは。赤ちゃんかわいいですね」
気が付いたら、帽子のつばを上げて声を掛けていた。母親は少し戸惑った様子で、はにかみながら答える。
「ありがとうございます。まだ二ヶ月なんです」
「一番大変なときですよね。夜、寝られていますか?」
ひとしきり立ち話をした後、母親がぽつりと言った。
「久しぶりに、夫以外とこんなに話しました!」
仕事を始める前の、子供と二人きり、孤独に過ごしていた頃の自分と重なった。
「よかったら、『児童館』って施設があるんですよ。そこに行けば、誰か居ますから。良い息抜きになると思いますよ」
つい、小さなお節介を焼いたのだった。
そんな出会いがあったことも忘れていた頃。出勤すると、遊戯室にその親子の姿があった。
母親は私の顔を見て、「あのときのお母さん!? ここの先生だったんですか」と驚いていた。子供はすっかり首がすわり、ガラガラのおもちゃに小さな手を伸ばしている。
「あれから、もう少し大きくなったら児童館に遊びに行こうって、それを楽しみに、頑張ってこられたんです」
笑顔でそう言う母親に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
この場所があることが、誰かの日々を救っていたなんて。
私や他の先生たちがいて、児童館が開いていることで、誰かの役に立てている。そう強く感じた出来事だった。
母親はその後、毎日のように遊びに来てくれるようになった。エプロン姿で働く自分が、少しずつ誇らしく感じられた。
秋の児童館のお祭りも、何十組もの親子の姿があった。私が働き始めなかったら、お祭りの規模を縮小していたかもしれないと聞く。
私は、ヨーヨーすくいのコーナーを担当した。
「腕をまくって。よーく狙ってね!」
目当てのヨーヨーを手に入れた男の子が、はじける笑顔を見せてくれる。
「先生、ありがとう!」
この場所では、私は「名前も知らない、児童館の先生」。
今は、それでいい。
今の私に、出来ることをしよう。一生に一度の舞台でなくても、代わりの利く仕事でもいいじゃないか。
誰かのために働くことは、こんなにも日々を輝かせてくれる。
「今日も、がんばろう」
朝九時ちょうど。今日も変わらず、児童館の扉を開ける。
新しい空気が、広い玄関に満ちていく。私の心にも、爽やかな風が吹き抜けていった。