【一般社団法人 日本産業カウンセラー協会 会長賞】

テーマ:A私を変えたあの人、あの言葉
卒業ありがとう
東京都  飯田 勝洋 80歳


 私を変えたあの人、あの言葉
 その人は母親なのです。そして職場の課長なのです。
 大学卒業式を終えて一人アパートに帰ってきた時、ポストの中に母から届いた一枚のハガキがありました。80歳の今でも脳裏に焼き付いている言葉があるのです。
 「卒業、ありがとう」
 「卒業おめでとう」ではなく「卒業ありがとう」なのです。
 そのハガキは、一カ所文字がにじんでいました。母の涙だと直ぐに解りました。
 それには理由があるのです。
 私が中学三年生の時でした。大企業の誘致と並行して富士市は港の工事を進め、企業誘致に成功したのでした。
 農地の買収に応じた農家の子供は優先的に採用される仕組みがあり、両親はその話に乗ったのです。大企業だし将来も安泰と考えたのでしょう。
 実際就職ししばらくすると三交代勤務が始まり、家族が寝る準備をしている頃、出社していく姿を見て母親は不憫に思ったと聞いた事があります。
 中卒ながらも次第に社会の壁を体験的に感じ始めていたのです。職場の先輩たちと一緒にいると、タバコも覚え、お酒も飲んだりします。そんな状況の中でも単純労働の辛さや中卒の今後への不安などが次第に思うようになってきました。
 定年まで勤めていても所詮現場の課長止まりだろうと思うことは、実際現場の課長がたたき上げの人だったからなのです。同じ道を歩くのは出来ないと幼いながらもはっきりと決めたのです。その課長からの後押しもあったのです。
 「こんな所にくすぶっていてはだめだよ。挑戦してみろよ」
 一緒にお酒を飲んでいた時に、課長は自分の経験の中から強くあと押してくれたのです。
 「何で」
 「お前だから言っているのだからな」
 私がこれからの事を考え、悶々としていた事がわかっていたので、後押ししてくれたのでしょう。だから退職を決めた時最初に報告したのは課長でした。
 「ホーッ。よかったじゃないか」
 現場では親父のような存在で何かと話を聞いてくれた寡黙な課長でしたが、ここだという時には一押しも二押しも親身になってしてくれました。
 中卒で就職してから二年後私は意を決し高校に行きたいと両親に相談しました。母親は二つ返事で賛成してくれました。
 母親は私を中卒で就職させた責任をいつまでも引きずっている様でした。
 二年間の遅れを取り戻すため必死に勉強した高校時代でした。大学受験を控えた頃になると母親は上京し一緒にアパートで暮らしながら応援してくれました。大学に合格すると母親は本当に喜んでくれたのです。
 大学の卒業式が終わり、一人アパートに帰ると一枚のハガキがポストにありました。母親からのハガキです。
 体を気づかう文章の最後に、「卒業ありがとう」文章の一部が母親の涙でにじんでいました。
 この言葉で母親の肩の荷が降りたのだろうと思うと、目頭が熱くなったのを思い出します。
 私が大学を卒業し社会人になることで、母親は引きずっていたわだかまりから解放されたのでしょう。
 同時に母親の顔をしわくちゃにする笑顔が浮かんできました。
 「卒業ありがとう」
 これに勝る言葉を今まで聞いた事がありません。大切な一枚のハガキは一生の宝物です。

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