【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
学生時代ろくに就職活動をしなかった私は働くということすらいまいちよくわかっていなくて、当時受けていた講義に外部講師として来ていた人のところへ行き「働かせてください」と言って、働かせてもらうことになった。そこは生活保護受給世帯や不登校など様々な困難の中に身を置いている子どもたちを対象とした学習・生活支援事業を展開している法人団体だった。私は教員免許を持っていたのでてっきり「教育現場」で働くものだと思っていた。でもそこは蓋を開けてみると「福祉現場」だった。福祉への第一歩は勘違いだった。子どもが通う学習教室の運営が主な仕事で、そこには様々な子どもが来た。ゴミ屋敷での生活を余儀なくされている子、DV避難の子、リストカットなどの自傷行為に走る子など。ここには書けないほどの凄惨な虐待を家族から受けている子もいた。最初はそういった子たちとの接し方がわからず、距離を掴むことに苦労した。学習教室は高校進学・就職を一番の目的にしているが、それだけではない。その中に「私、勉強できるから」といつも絵ばかり描いて教科書を開くことなく帰っていく高校生の女の子がいた。その子は同級生から日常的にいじめを受け、何度か自殺を決意するものの実行には至らなかった、という話を明るい表情でしてくれる子だった。他にも祖父の介護をしながら家の家事をしなければならず、学校の宿題にすら手が回らないからせめてここでは休ませてほしい、とやってくるヤングケアラーの中学生もいた。彼女たちは教室に来て、おしゃべりをして帰っていく。一見勉強をしていない不真面目な生徒に映るかもしれない。でも私はそういう態度を歓迎し、「お菓子を食べにくるだけでもいいからさ」という誘い文句で引きこもっている子たちに家庭訪問をした。まずは教室に来てもらう。勉強は二の次だった。教室は学校でも家でも居心地が悪い子たちにとって「第三の居場所」になった。すると教室に来た子たちが会話の中でふと零す。お金がなくて家族で明日食べるものがない、と。次の日に寄付でもらった食材を大量に届けに行くといたく感謝された。そうしていくうちに徐々に子どもたちとの距離も縮まり、私の運営する教室はその法人内でもトップの生徒参加率を上げ、結果的に生徒たちは全員希望する進路へと進むことができた。
私も子どもたちと似たような生い立ちで、父親からのDVを受けて育った。それを上司に話すと、上司は「まずはここまで生きてくれてありがとう。君にも福祉が必要だったんだね」と言った。そこで初めて私は「私に必要だったのは教育よりも先に福祉だったんだ」と気づかされた。福祉は高齢者施設や障害者支援といったイメージが強く、自分には関係のないものだと思っていた。でも振り返ってみると、今まで生きてきてこれたのは福祉によるサポートがあったからだと気づいた。それは私がこの分野に足を踏み入れていなければ気づけないことだった。私が子どもたちのためにと思って運営していた教室は、子どもの頃の私が切に求めていたものだった。「君のその体験があるから、子どもの立場になって支援ができる。本当の意味でそれができる支援者はあまりいない。だから子どもたちは君を信頼するんだよ。」と言われて、自分に向いている仕事がわかった気がした。
福祉はなくてはならない仕事だ。自分はいつの間にか福祉に生かされていて、だからそのバトンを目の前にいる子どもたちに繋ぎたいと思った。それが働くということなんだろう。所詮生活のための仕事だろうと思って社会人になった私は、時々仕事に忙殺されて「仕事のための生活」みたいに逆転してしまうことがある。そんな時は立ち止まり、そのバランスを立て直す。今は放課後等デイサービスに従事している。場所は違えど学習教室で福祉の学んだ精神を持ち続けている。これからも私なりの福祉を体現していこうと思う。