【一般社団法人 日本勤労青少年団体協議会 会長賞】

テーマ:A私を変えたあの人、あの言葉
父の背中
大阪府  ヤヲガラス 48歳


 父が病で倒れました。
 私は父のことを尊敬していませんでした。
 父の家での生活は休みの日はゴロゴロとテレビを見て、掃除や家の事も全く出来ないダメおやじでした。
 父は肺癌で食欲もなくなり、一人で歩くことも困難な状態になりました。
 意識がはっきりしない状態で入院することになった父に、話しかけても応答出来ない姿を見て、私と母はこれ以上仕事をすることが出来ないと判断しました。
 私は父の工場を整理するために、初めて父の職場に足を踏み入れました。倒れた日から一週間が経過していました。
 父の仕事は、数社から溶接や穴あけなどの加工を依頼される下請けの会社でした。会社と言っても従業員は父1人、60歳までは別の会社で勤務していましたが、定年を境に今の会社に声をかけてもらい現在に至ります。
 7年前に声をかけてくれた社長が倒れ、それからは父がやり繰りしていた様子でした。以前父が「俺、今会社やってんねん」と話していたことを思い出し、その時は意味が分からず聞き流していました。
 工場に入ると、年季の入った旋盤やボール盤などの機械が数台置かれてあり、その奥に事務所のような部屋がありました。
 初めて入るこの職場に父の残影を思い浮かべ、少し鼓動が高くなりました。
 何から手を付けようかと悩んでいると、入口の扉が勢いよく開き「しげ、居てるんか?」と大きな声が聞こえました。私は怪訝に入口の方に向かうと作業服姿のおじさんが立っていました。
 「おまえ誰や」
 「繁雄の息子です」この会話のあとより私の知らない父の一面を聞くことになります。
 おじさんは父に仕事の依頼していたN社の工場長で、1週間前より連絡が取れなくなり困っていたとの事でした。父は携帯電話を持たず連絡は事務所の電話のみでした。
 工場長に、この1週間での父の病状を説明していると徐々に顔色が青ざめ、そのあと号泣しだしました。
 私は父のためにここまで泣いてくれる人がいる事に、鳥肌が立ちました。
 その後、話を聞くと父は信頼出来る技術者だったようで、特に難しい仕事に関しては父に依頼していたといいます。さらにN社は父には返せないほどの恩があるらしく、N社のミスでかなりの損害が出そうな時に父が手を貸して救ってくれたと工場長は言っていました。その他でも工場長との関係は深いものがあるようでした。
 工場長は何でも手伝うから、何かあったら連絡がほしいと携帯の番号を置いて帰って行きました。
 私の知らない父の姿に、さらに鼓動が高まっていました。
 まずはゴミの処理から始めようと机上の整理をしていると、また入口のドアが開く音がしました。行ってみると父と同年代くらいのおじさんが「しげ、入院してるんだって」と話しかけてきました。
 工場長から連絡を受け急いで駆けつけてくれたという。その方は父に仕事を依頼してくれていたI社の社長でした。
 私は社長にも父の倒れてからの1週間を説明し、社長も話の途中から涙を流してこう話し出しました。
 「しげのお陰でうちがあるようなもんや、しげが無理難題をやってくれたから、わしらはやって行けてるんや」と社長も父との関係が深そうでした。
 また私の知らない父の姿が現れ、鼓動が収まらなくなっていました。
 社長が帰った後、片付けをしながら考えていました。家で見ていた父の姿も父なのだろうが、仕事で活躍し人脈を大切にしていたのも父なのだと。
 父は数日後、息を引き取りました。
 仕事をすると言うことは、お金を稼いだり出世しようと頑張ったりすることも大切な事ですが、私は父に仕事の中で繋がれる人脈こそ大切な財産なのだと教えられましたような気がします。
 今では尊敬できなかった父の背中をとてもかっこよく感じています。
 父の最初で最後の教えを、もう見ることのできない父の背中を追いかけ仕事に向き合っています。

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