【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
隣の県の青果市場に勤めていた父は、朝日が昇る前の4時台に起床し、5時には車で出勤するという生活を送っていた。帰りも遅く、平日に子どもの私と顔を合わせる時間はほんのわずか。土曜にも仕事があり、父は貴重な日曜の休みを休息にあてていたため、休日に家族で遠出した思い出はとても少ない。父が家にいる時は、寝ているか休んでいるかのほぼどちらか。いつも疲れている様子で、積極的に遊んでくれようとしない姿勢に、子ども心に距離を感じていた。そういったこともあり、私はすっかり「お母さんっ子」になった。
そんな父だったが、たまに早く帰れる日があると、市場の立派な果物をおみやげとして買ってきてくれた。小さな頃は無邪気に喜んでいた私だが、それも長くは続かず。小学校高学年くらいになると、素直に喜べなくなっていた。というのも、いわゆる「会社勤めの普通の会社員」ではなく、作業着姿で働く父のことを恥ずかしく感じるようになっていたためだ。「どうして友達のお父さんのようにスーツ姿にネクタイではなく、作業着なんだろう。お父さんが立派な仕事をしているような、お金持ちの家に生まれたかった」と。
その日、父は珍しく夕方に帰ってきた。「今日はメロンを買ってきたよ。すごく甘くておいしい品種だから食べてみて」と上機嫌。そんな父に対し、思春期の私は「この前も食べたし、別にメロンなんていらない」とばっさり。その時のがっかりしたような父の表情は今でも忘れられない。父は「そうか」と言うと自室へ戻ってしまった。後で母から「お父さんは、あなたのためにメロンを買ってきてくれたのよ」と言われて、「ひどいことを言ってしまった」と思った。父の仕事に対して、心からリスペクトの念を持てていなかったことが、こうした言動を招いた理由の一つなのだ。結局、そのメロンは後から母とおいしく食べた。その時「この前はごめんね。おいしかったよ、ありがとう」と父に声をかけられなかったことに、今でも悔いが残る。
その出来事は些細なことのようで、私と父の関係性を語る上では、とても大きな出来事だったのかもしれない。その日以降、父が果物を買って帰ってくることは滅多になくなった。私と父の距離は近づくことのないまま、時は流れた。父は青果市場で約30年働いたが、年齢を重ねるにつれて心身の不調が続くようになり退職。母に聞いたところでは、なんとか私の大学の学費を払い終えるまではと、踏ん張って働いてくれたのだという。
私は大学を卒業した後、社会人になり、結婚して2児の母親にもなった。現在はワーキングマザーとしてお金を稼ぐことの大変さを実感する日々だ。今になってやっと、父がどんな思いで朝から晩まで働き続けてくれていたのかを理解できるようになった。確かに、一緒に過ごす時間はそう多くなかったかもしれない。けれど、それもすべて子どもの私と家庭を守る母を養うため。毎日必死だったに違いない。そして、忙しい仕事の合間に、娘の喜ぶ姿を思い浮かべて、果物を選ぶことが楽しみだったのだろうなと想像することができた。それが父から娘への愛の形だったのだ。
スーツ姿かどうか、有名な会社に勤めているかどうかなんて関係ない。毎日の生活の源である「食」を支える青果市場で、家族のために文句一つ言わず働き続けてくれた父は、間違いなくわが家のヒーローだったのだ。このことを理解するまでに、私はかなりの時間を要してしまった。1万円を稼ぐことの大変さや、仕事を続けることが決して簡単ではないことを体感できるようになったからこそ、気付けたといえる。スーパーマーケットに並ぶおいしそうなメロンを見ると、あの日のことを思い出す。今は空にいる父に、不器用な娘から30年越しの謝罪がかなうなら、笑って許してくれるだろうか―――。「お父さん、あの時は本当にごめんなさい。あの日のメロン、とても甘くておいしかったです」