【厚生労働大臣賞】
高校2年生の秋、私はこっそりと進路希望を看護学部に変更した。一番上の兄弟は仕事が続かず家でゴロゴロしていたし、二番目は何かとお金が入り用だった。祖父母は介護度が高く、母は気持ちが弱くて父はすべてに無関心だった。夢はあったが、三番目の私に選択肢は多くなかった。一刻も早く手に職をつけるのが合理的だと思った。
そんなこんなで看護学生となった私は、アルバイトを掛け持ちし当時900円前後の最低賃金をためながら、授業と実習をこなしながら忙しい日々を過ごしていた。帰宅後は祖父母の面倒をみなければならなかったし、妙に高いプライドのせいで勉強をおざなりにすることもできず、通学のわずかな時間で睡眠をとった。
そしてコロナの到来とともに私は小児科の看護師になった。暴力的な父から逃げたくて、都心の病院で働くと嘘をついて段ボール数箱にすべてを詰めて、母を連れて逃げるように家をでた。
私の唯一の望みは、母に自立をしてもらうことだった。「私はまだ若い、自分のやりたいことはそれからでも大丈夫だ。」それがずっと原動力だった。だが私の懸命な忠告も虚しく、しばらくして母はもっともらしい理由をたくさんつけて、父のもとに帰っていった。家族への忠誠を問われたが、正直もうたくさんだった。
さて、そんな私に残されたのは、特に思い入れのない国家資格と、終わらない業務に忙殺される毎日と、行き場を失った感情だった。これまでがむしゃらに働いてきたのはすべて自分のためだと思い込ませてきたが、そもそも自分のために選択した決断でもなかったので、突如働く意味がなくなってしまった。
それからしばらく私の生活はとても荒んだ。といってもお酒やたばこに走るような度胸もなく、余計なことを考えなくてもよいようにこれまで以上に仕事に没頭した。他人より2倍も3倍も働いて、クタクタになればようやく眠ることができる。休みの日も虚しさを紛らわせるために、ボランティアを始めたり、資格を取得したりするなどして忙しく過ごした。弱みをみせたくなくて、みんなの前では努めて明るく振舞った。私はみんなに笑ってもらうのが好きで、病棟の子供たちや同僚たちがおなかを抱えて転がっているのを見ると「今日も悪くないかな」と思えるのだった。
そんな無謀な生活を続けていると、次第に同僚たちが私の様子がおかしいことに気が付きはじめ、何も聞かずに海や山へ連れて行ってくれたり、家に招待してくれたりとまるで家族の一員であるかのように扱ってくれた。ある意味、寄る辺のない私には涙というのを思い出すほど嬉しかった。また、人生に疲れていた私は、いつでも荷物をまとめる準備ができていたのだが、病棟の子供たちの反応が愛しくて「また明日も行こうかな。」と一日単位で退職を思いとどめる毎日を過ごした。
そうやって私は周囲の温かさに救われながら、ほとんど休むこともなく6年間働き続けた。社会というのは恐ろしいところで、一度の失敗も許されないと怯えていた私は、逆に社会に出てからたくさんの善意と親切に触れて人生が豊かになった。今では家族のように慕う人がたくさんできて、感慨深く思う。
このように社会にしっかり育ててもらった私は、また新たな夢をみはじめた。それは病や障害とともに生きる子供たちが幸せに過ごすことができるように支援することである。お世話になった職場の人たちからたくさんの熱いエールを頂いて、今私は大学院で勉強している。高校生の頃には見えなかった未来を生きている。一度働く目的を見失い、それでも働き続けた先で、また誰かのために働く目標が見つかった。働きながら誰かを支え、そして誰かに支えられている。それが働くことなのかもしれないと思う。
そんな私のひそかなTo Doリスト記念すべき1個目は「お世話になった人、みんなにおいしいご飯を食べてもらうこと!」。はやく達成したくてしかたがない。