【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
「そういうんじゃないから」
思わず振り返ると、着付け師さんはなんでもないことのように、手を動かし続けていた。
その日、私は呉服店の隅で母の振袖に合わせる小物を選んでいた。本当は、自分の好きな振袖を着たかった。でも、母の振袖があるのにそれを口にするのは我が儘のような気がして、何も言えなかった。この時の私はまだ、成人式を楽しみに思えなかった。
白地に紫や黒の蝶模様。母の振袖は格好良くて綺麗だと思う。けれど、視線が吸い寄せられるのは、鏡越しに見える可愛らしい花模様の振袖だった。私の視線に気づいたのか、着付け師さんが言う。
「この中で、着てみたいものはありますか?よかったら、少し羽織ってみます?」
母は席を外していた。隣ではスタッフさんと母娘がセット割の話を進めている。迷った末、私は小さく頷いた。持ってきてもらったのは、深い緑の生地に、桜が描かれた振袖だ。近くで見ると、一輪一輪に細かなグラデーションが施され、金の刺繍が、振袖を一層華やかにしていた。
着物に袖を通して思わず目を見開いた。まるで魔法かのように、鏡越しに見える自分の姿が突然華やかになった。腕をそっと振ってみると、たっぷりとした袖の刺繍が私の動きに合わせて光に反射する。本当に私が、この振袖を着ているのだ。振袖を羽織った瞬間、自分でも気づかないうちに押し込めていた「着てみたかった」という気持ちが、一気に溢れた気がした。ハレの日に着ることはなくても、ただ袖を通せただけで、胸がいっぱいだった。ところが、着付け師さんは、小物を合わせると印象も変わるからと言って黄金の帯を締め、写真まで撮ってくれた。
帯を解いてもらっていると、隣のスタッフさんが値札を手に取った。
「ちなみに、こちらのお値段は……」
「いいのよ、これは」
着付け師さんが、やわらかく遮った。
「そういうんじゃないから」
てっきり、お店のために着せてくれたのだと思っていた。新しい着物を買ってもらえた方が、お店の利益になる。それがビジネスで、だから、欲しいと言えない振袖の値段の話をされても仕方がない。そう思っていた。けれど、私はあの振袖の値段を最後まで知らないままだった。
年が明けて、私は母の振袖を着た。自分で選んだ振袖ではなかったけれど、合わせているのはあの着付け師さんと選んだ小物だと思うと、不思議と後悔はなかった。
今、私は海外からの観光客向けのレンタル着物店で働いている。私にとっては日常でも、お客様にとっては一生に一度かもしれない日本旅行だ。私には何十着の中の一着でも、その人にとっては、たった一着の着物だ。忙しい日ほど、あの言葉を思い出す。
「そういうんじゃないから」
働き方一つで、お客様に与えられるものは変わる。着付け師さんは、私の着てみたいという気持ちを大切にしてくれた。ただ意見を聞いてくれるだけでなく、小物を合わせて、着付けまでしてくれた。着付け師だからできたことだ。私の働き方への考え方は、あの日から少し変わった。私は着付け師さんにもらったときめきを、誰かに渡せる人になりたい。
壁一面の着物に目を輝かせるお客様を見て、自然と頬が緩む。袖を通した瞬間、鏡を見るお客様の顔が、パッと華やぐ。その少し照れたような笑顔が、あの日の自分と重なる。桜の振袖を着ることはもうなかったけれど、あの時の胸の高鳴りは今も色褪せない。着物を脱いだ後も、思い返すだけで幸せになれるような時間を、着付け師さんは私にくれた。それが純粋な親切だったのかどうかは分からない。ただ一つ言えるのは、売ることと同じくらい、売らないことにも意味は見出せるということ。だから私は、帯選びに迷っているお客様に声をかける。
「よかったら、鏡の前でいくつか合わせてみましょうか」
あの日のように胸が温かくなるのを感じながら、私は丁寧にお客様と選んだ帯を締めた。