【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
深夜二時、AIに頼んだ資料の下書きが返ってきた。読んでみると、よくできている。論理は通っているし、引用も正確だ。でも三回読み返したあたりで、妙な気持ち悪さに気づいた。文章としては正しいのに、どこを読んでも自分の考えが見つからない。うまく言えないけれど、他人が書いたレポートをそのまま提出するような後ろめたさに似ていた。結局その晩、私は下書きを閉じて一から書き直した。なぜそうしたのか、そのときは自分でもよくわからなかった。ただ、この気持ち悪さの正体を放っておけなかった。振り返ると、あの夜が「働くってなんだろう」と真剣に考え始めた出発点だったと思う。
あの気持ち悪さは何だったのか。考えるうちに、それは感情が抜け落ちていたことだと気づいた。AIの文章には、迷いも、書きながら考えが変わる感覚もなかった。正しいけれど、生きていない。私は今、博士後期課程でAIと感情の関係を研究しているが、この問いに向き合い始めたのは学部時代にさかのぼる。経営学を学んでいた二年次、購買データから人の行動がかなりの精度で予測できると知って衝撃を受けた。データはすごい、でもそこに人の気持ちはどう関わっているのか。その疑問が止まらなくなり、三年終了時に飛び級で大学院に飛び込んだ。先生にも「なんでそんなに急ぐの」と言われたが、データが行動を読めるなら感情はどうなるのか、早く確かめたかった。経営学からAI研究へと分野は変わっても、根っこはずっと同じだ。AIは人の感情を、その複雑さや揺らぎを保ったまま扱えるのか。冒頭の気持ち悪さも、結局この問いの延長線上にあった。
研究と企業の現場を行き来していると、AIのすごさは嫌というほど実感する。要約も分析もコード生成も、何時間もかけていた作業を数秒で片づけてしまう。ある会社と一緒に取り組んだプロジェクトでは、ずっと手つかずだった社内業務にAIを入れたら、そこが一番効果が出た。正直、とても焦る。全員がAIでそこそこいい文章を書ける時代になったら、平均的なアウトプットの価値はどんどん下がる。じゃあ自分が手を動かす意味はどこにあるのか、と何度も考えた。
答えのヒントは、皮肉なことに自分の研究の中にあった。私は情動圏という考え方を軸に、AIが人の感情を日常的に読み取る社会について研究している。今のAIは表情や声のトーンからでも感情を推定できる。ただ、たとえばAIが「この人は悲しんでいる」と判定したとして、その悲しみが本人にとって何を意味するかまでは、AIには決められない。私はこれを感情主権と呼んでいる。感情の意味づけだけは、最後の最後まで本人のものだ、という考え方だ。実際、高性能なAIを職場に入れた結果、社員のやる気がかえって下がったケースも見てきた。効率化したはずが監視のように感じられたり、ベテランの経験知が軽く扱われたり。そういう現場を見るたびに思うのは、働くことの本質は速さや正確さじゃないということだ。自分で「これには意味がある」と決めて、その判断に責任を持って、目の前の人と信頼を積み重ねていくこと。たぶんそれが、AIにはできない「働く」の真ん中にあるものだと思う。
私がこの先やりたいのは、人間以上の共感力を持つAIを、人を管理する道具ではなく、人のそばにいる存在として届けることだ。きれいごとに聞こえるかもしれないが、感情を扱う技術だからこそ倫理から目をそらしたら終わりだと思っている。AIに仕事を奪われるかどうかという議論は、正直もう少しずれていると感じる。大事なのは、AIと一緒にやっていく中で、自分は何を手放さないかだ。同じ時代を生きる若い人たちに、一つだけ伝えたい。AIがどれだけ賢くなっても、あなたの気持ちに意味を与えられるのは、あなたしかいない。そこを手放さなければ、私たちの「働く」は大丈夫だと思う。