【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】
私は国語教師である。だが、人前で話すのが得意ではない。だから離任式のたび、生徒に「約束」をする形でしか、思いを伝えられなかった。未来へと言葉を紡げば、生徒が何かを感じてくれるかもしれない。そんな祈りにも似た思いがあった。そしてそれは、自分への励ましでもあった。
最初に勤めた特別支援学校では「どんな時も、最後まで頑張る先生になります」と誓った。次の商業高校では「昨日できなかったことが今日はできた、そう感じてもらえるよう支え続ける」と約束した。そして学校の再編・統合により今はもう姿を消した三校目では、泣きながらこう告げた。
「もし二つの道があったら、私は自分を向上させるために、難しい方を選びたい」
あの頃は、困難な道を選ぶことが正しいと信じていた。国語を苦手とする生徒の多い学年で、授業も補習も全力で向き合った。受験を乗り越え、自らの道を切り開く十代の姿が、私を次の春へと導いた。
けれど、その信念はいつしか、自分を縛る鎖になっていた。「やらなければ」と「もう無理だ」の境がわからない。難しい道を選ぶことが、生徒のためではなく「約束を守らねばならない自分」のためになっていた。学年主任を打診されたとき、体は限界だったのに、私はまた「難しい方」を選んでしまった。
そこへコロナ禍が重なる。生徒のいない教室で、同僚がたくましくICT授業を展開していく中、私は学校へ行くだけで精一杯だった。休めば休むほど、無力な自分に絶望した。人の支えになるどころか、足手まといになっている——そう思いつめた夏、私は休職した。五十二歳だった。
二年間、私はほとんど動けなかった。朝、夫が作った食事をひと口飲み込んでは、涙が出た。みんな働いている。私にはもう、生徒を思う資格もない。そう信じて、布団の中で日が暮れるのを待った。
退職を迷っていたある日の午後、携帯が震えた。三校目の教え子からの電話だった。彼女はひとしきり私の体を気遣ったあと、こんなことを言ってくれた。「先生、離任式の言葉を覚えていますか」少しの沈黙の後、彼女は続けた。
「今の世の中は、なんでもわかりやすい方が認められやすい。でも、難しいことに取り組んでこそ分かることもあるって。だから私も、難しい方を選ぼうと思いました」
声が震えていた。そして彼女は、静かに付け加えた。
「授業で菅原道真の『東風吹かば』を読みましたよね。『あるじ無くとも春を忘るな』——覚えていらっしゃいますか」
あの教室の空気が、一瞬で戻ってきた。窓の外の、まだ硬い梅のつぼみ。私は、忘れていなかった。ただ、見えなくなっていただけだった。
約束は、私を縛るためのものではなかった。私を導く道しるべだった。あのとき本当に伝えたかったのは、ひとりで険しい道を行くことではない。誰かとともに歩み、支え合いながら、少しずつ前へ進むことだったのだ。働くこともできず、社会から取り残されたと思い込んでいた私のもとに、一輪の梅の花が届いたようだった。私はひとりではない。電話の震える声が私の背中を押してくれた。
今、私は再び教壇に立っている。うまく話せなくてもいい。ただ、目の前の生徒と同じ場所に立ち、同じ方を見ていたいと思う。
コミュニケーション力があることが良しとされ、手軽でわかりやすいものが求められる時代を、若い人たちは生きている。けれど、人とのつながりは明朗な性格のみに宿るものではない。一人一人のあり方と同じ数だけつながり方はある。また、難しさに向き合い、時として挫折感を味わう中にこそ、未来の自分への道がある。そして、その道は一人ではなく支え合いながら行くのがいい。それを、自分なりに伝えていくことが今の私の目標だ。
春に結んだ約束は、消えてはいなかった。形を変えて、ここにある。
春を、忘るな。