【公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞】

人生最後の笑顔
大阪府  遠峰愛海

自分の姿は見えますか?
 ほら、立てましたね、奥さんも見守ってくれていますよ!
 返事はない。目はうつろ。右側の壁を凝視。流涎している。右手はなにかを探すように空を切る。徐々に力が抜け、左側へ体が傾いていく。


たくさんの患者がトレーニングをする、広いリハビリ室の外では、紅葉が舞っていた。
 重介助でAさんを後ろから支え、なんとか体勢を立て直すと、涼しい時期にも関わらず床にポタポタと汗が落ちた。


昨年まで、私は回復期病院で理学療法士をしていた。
 重度の脳梗塞の患者を担当していた。Aさんは左半身の不全麻痺、意識障害、高次脳機能障害を患っていた。特に厄介な症状は、左側を認識することが困難となる、左半側空間無視という症状だった。


病棟に戻ると、Aさんは疲れたのかぐったりしすぐに眠った。
 病室の外で、心配そうに見ていた奥さんが声をかけてきた。
 今日、初めてリハビリを見学しました。寝たきりの人でも、あんな風に立たせたりできるんですね。もう年だし、できたら休ませてあげたいとも思います。
 確かに高齢ですし、無理はできませんよね。立つ練習であれば、リスクはそこまで高くないですし、寝たきりでマッサージだけしているよりも、足の裏からの刺激が加わることで脳にも刺激があります。立つ姿勢を維持することで筋力向上にもなりますから、もう少し続けてみたいと思っていますが、どうでしょうか?
 奥さんは納得し、自分にも手伝えることがあれば、と言って帰っていた。


紅葉は散ってまばらになり、病棟から見える景色は枯れ木で殺風景になった。
 Aさん、こんにちは。体調は良いですか?
 強いまばたきが返ってきた。
 今日もリハビリ担当します。よろしくお願いします。
 ははぁ、と笑ったような、少しだけ息がもれるような返事が返ってきた。
 奥さんも手伝いに来ていて、頑張るわよ!といつものように意気込んでいた。


専用の装具を付け介助で立つと、軽い支えのみでAさんは立った。
 相変わらず右側を凝視しているため、頭に軽く手を添え正面を向かせながら、全身鏡で自身の姿を見てもらう。
 ご自分の姿はみえていますか?
 Aさんは軽く頷いた。
 さらに、奥さんが左側から声をかけるとAさんは少し戸惑い、視界の右側を探る。奥さんが何度も根気よく声をかけると、少し左側を向き、ゆっくり奥さんを見た。Aさんは右の口角を少し上げ、笑った。奥さんは目に涙を浮かべていた。この日が一番、Aさんの体調が良かった。


それから3週間、Aさんは微熱が出て、リハビリにドクターストップがかかり、寝たきりとなった。Aさんはみるみる痩せていき、目を開けていることが少なくなった。


休みの翌日、出勤すると、Aさんは亡くなっていた。
 寒い日の明け方のことだった。


数日後、奥さんが着替えや荷物を取りに来院した。
 数か月間、ありがとうございました。最後は結局寝たきりになってしまったけど、ここに入院して、リハビリを毎日やることで、亡くなる前に、元気な主人を見ることができて良かった。笑顔もみることができました。と感謝の言葉をいただいた。


Aさんは最後まで話すことが出来なかったので、本人にとって良い選択ができたのかは未だに分からない。しかし、積極的なリハビリを続ける、というチャレンジをしたことで、Aさんの表情や仕草から、人生最後の笑顔をつくる、小さな幸せのための力添えが出来たのではないかと思う。


今後、このような機会はめったにないと思うが、私が関わることで誰かに、直接でなくても、小さな幸せを届けることが出来ればよいなと考える。

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