【 人材開発統括官賞 】
平成29年8月16日。私の人生に最も大きな影響と衝撃を与えた日。そして、次なる人生のスタートを 余儀なくされた日だ。
「病名は左乳がんです。」
担当の医師は淡々とパソコンの画面を見ながら言い放った。事前の通知で「陽性」と知らされていた ことから、ある程度の覚悟はできていたものの、一縷の望みをかけてその日を迎えていた私にとっては、 一気に崖の下に突き落とされた瞬間となった。
その後の精密検査で、がんの悪性度合が高いことも分かり、フルコース治療が必須となった。そこか ら私の毎日は、全てが大きく変化していった。
まずは職場の上司に病気のこと、手術のこと、今後どういった変化が訪れるかなどを報告した。私は当 時44歳、フルタイムで働く会社事務員、係長職。職場は毎日がとても忙しく、日々残業が常態化し、夜 遅い夕飯を食べ、ソファで横になる。そのまま眠って明け方3時頃目が覚め、風呂に入る...といった不 規則な生活を繰り返していた。今思えばそんな毎日が体に負担をかけ続けていたのだと反省している。
手術を終えた翌月から始まった抗がん剤治療では、吐き気と戦いながらデスクワークを乗り切った。
上司も同僚も皆協力的だった。しかし、元々人に甘えるのが下手な性分のため、また皆に迷惑をかけた くない一心で仕事を誰かに委ねることをしなかった。抗がん剤の副作用は人によるので、どちらかと言 うと自分は軽い方だったと思う。仕事を休んだのは半年間で6日。有休休暇や病気休暇を使い、休業す ることなく働かせてもらえた。がん治療は多額の治療費が伴うことに加え、我が家には三人の息子がおり、上の二人は県外の大学と専門学校へ進学中。とてもがん治療=退職と考えることは出来なかった。
そして半年が経ち、副作用の強い抗がん剤が全て終わった頃、職場の人事異動で、治療との両立が利く 職場に異動させてもらうことが出来た。とてもありがたい配慮だった。新所属の面々にも病気のことは 伝え、春から始まる放射線治療で、毎日時間休をもらわなければならないことも理解してもらえた。仕 事の業務量も以前の職場に比べるとかなり軽減された。周囲に迷惑をかけずに仕事が出来る環境は、自 分自身が望んだことだった。なのに、なぜか毎日仕事が終わると涙が出てくる。これは、毎朝飲んでい るホルモン剤の影響なのかとも思ったりしたが、望んだ日々がやってきたにもかかわらず、胸でもやもやと湧き出ていた感情は、自分勝手に生み出していた『疎外感』だと、ある日気付いた。自分は病人な のだ、みんなと同じ土俵で同じだけの業務をこなせる立場にない、そう理屈では分かっていても、一線 から外されたのかもしれない、といった余計なことを考える時間が増え、日々居ても居なくてもいいの ではないかという気持ちと随分葛藤もした。もう仕事を続けられる気がしない...そう感じていた時に見 つけた、がん患者専用のコミュニティサイトに、想いのたけを書き込んでみることにした。愚痴ともと れる後ろ向きの内容にも、同じ『がん』と戦う仲間達は、多くのエールを送ってくれた。
「今まで頑張ってきたのだから、ちょっとは休憩したら?今出来ることをすればいいんじゃない?また バリバリ働ける時がくるから。」
そうだった、私は病気を治すことが今一番の課題なのだ、それをバックアップしてくれる環境がある、 認めてくれる上司や仲間もいる、なのに一番自分自身現状を受け止めきれずにいる、そう気付かされた。
誰の身にも、病気や災害が降りかかるリスクはある。しかし、どんな状況下に置かれても、働くこと をあきらめずにいられる環境に感謝すべきなのだ。これから先の人生を考える上で、私は「生きるため に働く」ことを選択し、完全にがんを乗り越えたと言える日まで、生きること、働くことを大事にして いきたいと思う。