【 入選 】
私は作業療法士として勤めた21才から24才までの3年間を迷走期、24才から34才までの10年間を疾走 期、34才から39才までの5年間を助走期と分けた。40才だからこそ定義できた。始めからゴールを描く ことはできなかった。
1年目は悩むことも楽しいこともなく、仕事の手順やタスクは慣れると覚えた。今になって思えば、自 分のできること、やるべきことが見えていなかった。2年目も訳が分からないうちに乗り越えて、3年 目になると壁が立ちはだかった。仕事の存在意義を見出すことができなかった。それは自分の価値と同 じ意味だった。無能感をエルルギー源とする無気力は、加速度的に膨らんだ。悩むこと自体も意味がな いように思えた。勇気を振り絞って職場を変えた。半年後に同じ苦しみがまとわり付いた。体制ではな く、自分の考え方に問題があると気がついた。職種を変えようかと思い悩み、同級生だった友人に打ち 明けた。県外に勤めていた彼が見学研修に来いと誘うので、すぐに飛んだ。そこで根本からすべて覆す 衝撃を受けた。理想的な視点、考えた方、行動に触れたことで、翌日から何もかも変わった。人はたっ た一日で変化できるとわかった。理想と現実のギャップに苦しむという新しい課題も生まれたが、得体 の知れない苦悩に比べれば解決できる気がした。私の転機は友人が与えてくれたが、今なら研修会や働 き方に関する書物も溢れている。仕事に関する訳のわからない悩みがあるのなら、しっかり悩んだ方が いい。もがき、さ迷い、答えを求める過程で、仕事に対する自分の在り方が築かれつつある。迷走期に 得られることは、後にならければ理解できない。迷走しなかったことで失うことは、将来的に気づくこ ともない。30代後半になって活躍動している人たちと話すことで発見できた。スタートして3年目まで に辿り着いた場所が、15年後の居場所へと続く。
疾走期は妥協せず、自分を貫き通した。結果的にできることが増え、やるべきことも明確になった。子 供が生まれることで新たな役割も増えた。育児は他人が思い通りに行動しないことを学び、強みを借り あってチームで動くことが目標の実現に必要不可欠だということも教えてくれた。成功と失敗も含めて、 一生忘れない経験を重ねるうちに成長を実感した。不安や無能感が消えてしまうことはないが、さらに 大きい自分への期待を抱けるようになった。思い通りにいかないことも含めて、最も働き甲斐のある時 期だった。疾走期に多少の不利益や不完全燃焼感も受け入れながら、ひたすらに走り続けることで揺る がない自信が育つ。自信を持てるようになってから、行動できるようになったわけではない。まずやっ てみることが、最も価値のあることだと気がつく。
助走の時期というのは停滞ではない。やるべきこと、できることが明確になり、同時に職場から新し い役割を期待されるようになった。経験したことのない責任や業務は、やり甲斐を感じることも、適度 な緊張感を得られることもあった。自分と同じ考え方、経験を選択してきた仲間にも巡り合えた。彼ら は私に無いものを持っていたし、追いつけるものでは無いこともわかった。職場を超えた彼らとの関係 によって、チームワークという言葉の意味を理解することができた。充実していたが、名前のわからな い不安はいつも潜んでいた。定年まで残り20年の仕事が想像できたことで、退屈感に襲われた。すべて を投げ出してゼロからスタートするには遅すぎると感じ、養育費と生活費の確保が最優先課題だと理解 していた。でも受け入れらない。悩むことは問題ではない。結論が正しいか、良いかも問うべき本質で はない。深く広く仕事を究めても、趣味や育児へ関心と時間を費やしても、職場以外で能力と意欲を発揮してもいい。大事なことは、自分が納得しているか、否か。助走期は次のステージが迫っていること を明確に予感させ、やりたいことは何かと自分が問いかけてくる。これは居心地の良い不安定さである。
今この瞬間に必要なことは、未来にならなければ理解できない。働く意義は誰かが与えてくれるもの ではない。知識と技術を伴う日々の小さな行動が習慣化され、役割によって会社や社会から期待される 選択がわかってくる。環境による制限と促進が役割の解釈を変化させ続け、行動が影響を受けて知識と 技術も更新する。成長を意識することで意思が育まれ、意思に基づいて行動と役割も変わり続ける。意 思、知識と技術、行動、習慣と役割、そして環境は互いに影響を与え合って、絶え間なく変わり続ける。働くことに関する問いと答えを求める過程こそ、働く意義だろう。道が開いている。走ろう。