【 入選 】
「ここはどこですか?市川で下りたいのですが...」一人の青年が誰かれとなく聞いていた。「電光掲示 板に表示されていますよ」誰も彼に応えてあげようとしなかったので、私が即座に教えてあげた。「す みません。僕は目が見えないのです」彼の言葉にハッとして、思わずまじまじと見つめてしまった。確 かに目の悪い方だった。手にされていた白杖が目に入った。「気がつかなくてごめんなさいね。私はあ なたと同じ市川で下車しますから、もし良かったら私の腕につかまってください」そういうと「心強い です。それじゃそうさせていただきます」青年は素直に、差し出した私の腕をつかんだ。ホームのエレ ベーターを使って、改札口まで一緒に出た。私とは反対方面に自宅があるらしく「ありがとうございま した。もうここからは、大丈夫です」深々と頭を下げて、お礼を言う彼を見送った。その時のひょっと したら、友達の息子さんではないだろうか、ふとそんな考えが頭をよぎった。家に帰り着くと、早速友 達の彼女に電話を入れてみた。私の勘は図星だった。
青年の母である彼女と知り合ったのは、ある講座を受けた時に、隣りあわせの席だった。ペットボト ルの水をごくごく飲みながら、「私の声かすれてて、変でしょう。本当は喉の手術が必要なんだけど、息 子が大けがをして、その方に手を取られて、自分の事どころではないのよ」気さくに初対面の私に話し かけて来た。「大けがってどこで?」聞き返さずにはおれなかった。「息子が勤めていた会社で事故が起 こったの」。詳しくその時の様子が聞きたいと思ったら、生憎講座の担当講師が登壇し、授業が始まって しまった。息子さんのことが気になったけれど、その時は講師の話に耳を傾けざるを得なかった。高い お金を支払って、受講しに来たんだからと、本来の目的を思い直して、授業の方に集中した。
講座が終わって、住まいは私と同じ市川方面であることが分かった。それで電車の中で息子さんの事 故の続きを聞くことができた。
「息子はね。化学工場関連の会社に勤務していて、見回りで炉にひび割れがあり、液がもれていたの を発見したの。すぐ上司に連絡。二人でその現場にかけつけた時、突然その炉が大爆発を起こし、至近 距離にいた息子がもろに爆風を受け顔面をやられて、大けがを負ったの。やけどがすごくて両目を失明。
口周辺のケロイドもひどくて、皮膚が引きつって、食べるのも容易じゃないのよ。だから私は息子の看 病で、自分の体のことは後回しなの」
中途失明をした息子さん。大変な事故に遭遇し、会社も辞めざるを得なかったということ。憧れだっ た大手の会社に採用され、結婚もし、5歳になるかわいい息子さんがいて、とても幸せな家庭を築かれ ていたというのに。前途は洋々で希望に満ちた勤務の日々...。それが突発的な事故で大けが。たまらな く気の毒で、母親の彼女にかける言葉がなかった。何と慰めてあげたらいいのか、心が重かった。
何回も手術を繰り返し、病状が安定するまでに、5年くらいを要したとか。顔の傷が一応治った頃に 奥さんと離婚。子どもは奥さんが連れていき、息子さんは自暴自棄で、外出もしなくなり、家に閉じこ もってばかりいたとか。母親の彼女がえらいと思えるのは、そんな息子さんに「働いて自分の食い扶持 くらいは稼ぎなさい!」と必死に働きかけたこと。母親の叱咤激励を受けて、息子さんは親元から離れ、 鍼灸師の学校に入り、念願だった資格を取得してその道を歩き始めたそうである。
働くことは人間にとって、とても大切なことだと思う。一端は「死にたい」と絶望の淵に追い詰められ た息子さんが、働くことによって、希望を見いだし、前を向いて一歩を踏み出された。それはご苦労を なさったご両親を安堵させ、今家の中を明るく照らしている。以前の会社から比べれば給料が違う。だ けど懸命に生きることにこそ、価値があると思う。