【佳作】
先日、久しぶりに東京へ行くことがあった。改めて東京は経済の中心なのだと思った。
同じ日本にある東京と宮崎なのに、人、物の数、情報量、全てが違いすぎて数年の差があるのではないかと思った。
そんな違いがある中で、自分は住んでいる場所で「どう地域に貢献していけばいいのか?」「何ができるのか?」と考えさせられた。
また、宮崎と東京の違いという点では、通勤時間がある。都市部の通勤時間の平均は1時間程度だが、宮崎では、通勤時間30分以内、30分自体も遠いと考え、通勤時間のかかる就職先は希望しない人が多い。
シングル親が多い宮崎では、家庭の両立を考えると必然的にそうなってくるようだ。初めは、通勤時間が長くても当たり前に出勤をしている人がいるのだから、通勤時間を気にせずに働くべきでないか?と 思っていた。
しかし、考えれば、片道1時間で往復2時間、これが5日間なら10時間。1日の就業時間以上を通勤に充てたことになる。通勤時間は生産性がない時間と考えると、通勤時間の少ない就職先を選ぶという のは生産的に効率的で合理的な考え方なのだ。
通勤時間だけでなく、平均だから普通だからと、それを当たり前で常識と思うところに、無駄や矛盾が発生している場合がある。見たまま、聞いたままを素直に受け止めて疑問に持たずに過ごすのではな
く、本質を見抜く力を養うことが大事だと考える。
そう考えるからこそ、母親の本当の気持ちを理解でき、やりたい仕事が見つかったのだと思っている。
私の母は、シングルマザーであったこともあり、仕事探しにとても苦戦していた。
仕事探しに苦戦した時は、
「あんたがいなかったら、よかったのに。」
「子供なんてほしくなかったのよ。1人がいい。」と言われたこともあった。
それでも毎日、家事をしてもらい食事がでる環境だったので、子供ながらに「生きていくうえでは、こ の人に見捨てられないようにしなければ」と思い生きてきた。
自分の力で、生活できない無力さを感じながら、母の機嫌をそこねないように、毎日を過ごす。
それはまるで、生きているけど死んでいるかのような、存在しているけど存在していないかのような、 透明じゃないけど透明人間のようなそんな存在で、そんな生き方だった。
ようやく社会人として働くことができたときは、経済的な自立もでき、自分の人生を好きなように自 由に生きているという充実感を味わうことができた。
しかし、私が25歳を向かえるころから、母親の物忘れがひどくなっていった。
そして、病院での検査の結果、アルツハイマー型若年認知症と診断された。
当時、母は54歳だった。
母の介護を理由に、会社を辞めることになり、祖母と協力しながら母の介護が始まった。「子どもはい らなかった、1人がいい。」と言っていた母親が、早くに介護が必要になり、私だけでなく、たくさんの 人の助けが必要になるなんて思いもよらなかっただろう。
しかし、認知症になってからよいこともあった。
認知症になってからの母親はとても子ども好きだった。子どもを可愛がる姿を見て、本当は私のこと もかわいがって、愛情を注ぎたかったんじゃないか、と思うようになった。
経済的なゆとりもなく心に余裕もなくギリギリな状況だったから、私に八つ当たりするしかなかった んじゃないか?母親の中にジレンマだったり葛藤だったり色々あったんじゃないか?と気づいた。迷惑 をかけまいと、姉妹や祖母に相談せずに、どうしたらいいかわからず1人で苦しんでいたのかもしれな い。もしも、母親に相談できる誰かがいたら違った人生があったのかもしれない。母親の残り少ない人 生、せめて穏やかに過ごせるように見守っていきたい。
そして、全国のシングルマザーを含めたシングル親や生活困窮者のよき相談相手になりたい。それが 私の夢だ。