【 奨 励 賞 】
今春、娘が地元の大学に入学を果たした。高校の3年間で色々な進路を模索していたようだったが、最 後に選択をしたのが、大学で介護福祉を学ぶことだった。
都会への憧れや、大好きだったアニメーションに関する分野。てっきり県外の大学か専門学校に進学 をすると思っていた私は、娘の出した結論が意外だった。「お母さんみたいに誰かを笑顔にする介護士に なりたい」。三者面談の帰りの車内でこの言葉を聞いた時は、涙を堪えることに必死で目を見て話すこと が出来なかった。
私が介護の世界に足を踏み入れたのは、今から15年前のことだ。地元の高専を卒業し、大手電子部品 製造の会社に就職をしたが、日々の激務に追われるうちに体調を崩してしまった。しばらくは専業主婦 をしていたが、やはり社会と繋がっていたくて、知人の紹介で訪問介護をメインに行う事業所に再就職 をした。
ただ、実際にこの仕事を始めるまでは、介護を甘く考えていたのは事実だ。要・介護者のレベルは幾 つもの段階に分類されていて、最も重い介護者ともなると首から下が動かせずに、当初は意思疎通を図 ることがままならなかった。
中でも印象に残っているのが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患う30代の女性との出会いだった。彼 女は弁護士を志し国立大の法学部に入学を果たすも、間もなく同病を発症し、夢を断念し長期の闘病を 余儀なくされた。診断されてからしばらくは身のまわりのことを自分で出来ていたが、徐々に全身の筋 肉が衰えてゆき、寝たきりで声を出しての会話がままならなくなった。
やがて24時間の介護体制を敷くようになり、私は1日に何度も彼女の家を訪れることになった。年齢 が近かったこともあるが、共に韓流歌手が好きなこともあって話が弾み、彼女の笑顔を見ると私も幸せ な気持ちになれた。ベッドの周りや壁じゅうにはグッズが飾られ、それらを眺めているうちに一つの感 情が芽生えた。
《何とか彼女を、東京で開催されるコンサートに連れて行けないだろうか...》という思いだった。彼 女のコンサートへの憧れは知っていたし、どんなことをしても夢を叶えてあげたいと思った。電動車椅 子に乗っての飛行機と電車での移動、更には街中での介助や宿泊先の確保にも不安があったのは事実だ。
でも、無謀だと最初から諦めてしまっては何も出来ない。
所長を説得して、何度も何度も計画書を練り直し、考えられる最悪の事態を想定しつつ上京をした。も ちろん私1人では心許ないので、もう1人のヘルパーと彼女のお母さんに同行してもらった。途中、小 さなアクシデントもあったが、コンサート中に見せてくれた心底楽しげな笑顔は、この仕事を続けて来 て本当に良かったと思えた瞬間だった。
後日、彼女から手紙を貰った。その中の一文に、心を揺さぶられる言葉があった。「この病気になって からの私は、何事にも出来ない理由を探す自分になっていました。そんな私に可能性をくれたのが○○ さんでした。素敵な時間をありがとう」という内容だった。
何事にも当てはまることかもしれないが、特に介護の仕事は安全を最優先するあまり、出来ない理由 から探して可能性という芽を摘んでしまうことがある。それは時に利用者の自立心を妨げ、QOLの低 下を招いてしまうことがある。介護をする側も、常識に囚われていては成長することが出来ない。
娘が同じ道を志してくれたということは、少しは働く背中を見せられているのかなと思う。まだ先の 話にはなるが、共に切磋琢磨出来るのを楽しみに待ちたい。