【 奨 励 賞 】
「恒産無くして恒心無し」という孟子の言葉がある。職を辞した今、私はこれまで培ってきた約38年 の恒心(があるとしたら)を基に、恒産なくとも恒心を失わずに、これからの人生を生きようとしてい る。
働いているときにはそれなりに大変だったけれど、仕事があれば、「生きる」ということに踏み迷うこ とはなかった。例え惰性であっても、毎日規則正しい生活を送り、時間を持て余すことはなかった。時 間の使い道など考える余裕とてなく、あれこれ悩む前に、目の前にあることを、せっせと片付けなけれ ばならなかった。
「石の上にも3年」、38年間、同じ仕事をやり続けるということが、克己心のない私を、知らず知らず のうちに磨いてくれた。そして、いかに自分が駄目な人間であるかを気付かせてくれた。これまで職場 の仲間や生徒たちにどれだけ迷惑をかけたことだろう。謝っても謝りきれない。そう思えるようになっ たのも、仕事を通して私が成長したからである。
駄目な私であるからこそ、生徒たちのより良い成長のために少しでも役立ちたいと思うようになった。
ときには、生徒たちと一緒にいることを苦痛に感じることもあったが。何と思われようと、生徒のため に私のやれることをやろう。辞めずに続けていると、うれしいこともたくさんあった。生徒が、行事の 活動に協力してくれたり、温かい言葉を掛けてくれたりしたのだ。いろいろなことを教えてくれたりも した。
宝物の言葉が数あるなかで、特に印象に残っているのが、文字の大変上手な生徒の言葉だ。「先生の黒 板の字、すごく上手。」と言ってくれたのだ。国語教師でありながら、下手だった。黒板の文字はなおさ らだ。38年前、当時の学校長から、「I先生のように書けるようになりなさい。」と言われたことを今で もよく覚えている。I先生は美術の先生だったが、見学に行くと、達筆な行書の文字が黒板に広がって いた。期せずして何十年もの修行の成果を認められたようで、生徒の言葉は、ありがたかった。心底あ りがたかった。
国語の教科書に載る主要な作品は、あまり変わらない。38年間、同じ作品を生徒たちと学べる幸せと いうものもあった。同じ作品でも、指導者の成長によって、届けたいメッセージも変わってくる。内容 は同じであっても、どこに重点を置くかで、作品の放つ光彩が違ってくるのだ。作品を学ぶということ は、ただ内容を捉えれば良いというものではない。これから自分が生きていくうえでの足掛かりを得る ということなのだ。「先生の授業は道徳みたいだ。」と言われたこともあった。義務教育の時点では、致 し方ない。少しでも生きる糧を得て欲しいと願っていた。
おばあちゃんになっても、生徒たちは私に優しかった。手の届かないところの施錠を頼むと、身軽に 鍵を掛けてくれた。「ありがとう、助かったわ。」「ありがとう」という言葉を、毎日言えて、幸せだった。
素直な生徒たちのおかげだった。見かけはおばあちゃんでも、心は中学生のころと変わりなかった。冗 談でよく生徒たちに、「『ハウルの動く城』の『ソフィ』みたいなもんだね。」と言ったけれど、満更うそ でもなかった。
中学教師という職業を通して、私は38年間青春の時を過ごし続けることができた。と同時に、38年間、 私は生徒の心に種をまき続けた。今すぐ発芽せずとも、10年後20年後に芽を出せばいい。それを信じて、 ひたすらまき続けた。これからは祈りの気持ちで、静かに見守り続けたい。
よく物づくりは面白いと聞くが、人を育てる仕事はもっとずっと面白かったよ。ありがとう、みんな。
「ありがとう。」と言える幸せを、今しみじみと噛みしめている。