【 奨 励 賞 】

【テーマ:仕事をしたり、仕事を探したりして気づいたこと】
転職から天職へ
東京都 齋 藤 牧 子 62歳

私が大学生だった頃、まだ「男女雇用機会均等法」は施行されておらず、女子の就職、特に4年制女 子の就職は男子に比べ、非常に不利であった。求人が限られており、縁故が必要なところが多かった。

ある商社の就職説明会には、わずかなチャンスを求め多くの女子学生が集まったが、その会社の担当 者の発言は驚愕であった。

「我が社の男性社員の多くは海外赴任をします。私たちが求めている女性社員は、その社員たちのよき 伴侶となれる女性です。」

今であれば、かなり問題になる発言であったが、誰も反論はできなかった。

私はペンだこができるほど、履歴書を書きまくった。面接までこぎつけても、履歴書が戻ってくるこ とがほとんどだった。

卒業後、小学校の教員をしていた母の勧めに従い、私は小学校の教員免許を取得するために通信教育 を受講していた。しかし、教育実習を目前にした半年後、中途採用で音響メーカーの国際部に入社した。

私は所属のない生活に耐えられなくなったのだ。

当時の給与体系は男女同一賃金ではなく、仕事は男性の補助で、お茶くみは仕事の一部だった。男性 社員にはあった英語研修や海外トレーニーの機会もなかった。しかし、世の中全体がそうだったのでさ ほど不満に思うこともなく、呑気なOL生活を送っていた。入社して5年近くたった時、変化も進歩も ない生活に飽き、アメリカで英語研修をするために会社を退職した。

3か月後帰国し、半年間派遣社員として働いた後、求職活動を始めた。新卒から数年たった30歳目前 のキャリアなしの女性には、厳しい現実があった。それでも何とか、上場企業の子会社に社長秘書とし て採用された。

その会社で、私は仕事に対する自分の意識の低さに初めて気づいた。私は世間体のよい仕事に就くこ とを第一優先とし、自己の仕事の適性についてまったく考えていなかったのだ。実際、私には秘書とし ての能力がなかった。前職では責任が問われる立場ではなく、学生時代の延長のようにお気楽に同僚た ちと日々を過ごしていた。

その会社を1年半でやめ、再度、英語研修のために半年間渡米した。今度こそは英語研修を中途半端 なものにしないと心に誓った。すでに32歳になっていたので、帰国後は男女の区別なく仕事ができ、英 語を活かすことのできる、高校教師を目指すことにした。

帰国後、採用試験に合格し、翌年から英語教師としての生活をスタートさせた。遅ればせながら始まっ た教師生活は、山あり谷ありで、その90%が谷であった。崖っぷちに立たされたことは何度もあったが、 周囲の助けを借りながら乗り越えることができた。

定年まで28年間教員生活を送ったが、教職に就いてよかったと思う。苦しい時も仕事をやめようとは 思わなかったのだ。教師の仕事はすぐに結果がでることはない。人間相手なので、どんなに努力しても 報われないこともある。しかし、ちょっとしたことで90%の苦難が帳消しになるのだ。これが28年間続 けられた理由なのだと思う。転職を繰り返した私が、やっと見つけた天職だった。

最初から教師を目指した同僚たちとは、私はどこか違うと感じてきた。同僚にそう言われたこともあ る。しかし、多種多様な教師がいてもいいのではないか。生徒たちもそれぞれ違うし、教師も違って当 然なのだ。

キャリア教育の際、私はいつも言っている。「一番やりたいことをやりなさい。選択肢は無限大だけど、 残念ながら今は一つしか選べない。途中でその道が違っていると思ったら、立ち止まりなさい。深呼吸 をして目の前の選択肢の中から一つ選べばいい。でも、選択においては常に真剣であること。」

様々な出会いの中で、人は成長するし、未来予想図も見えてくる。「挫折は宝である」と私は自身の経 験から痛感している。

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