【 奨 励 賞 】
昭和40年春、高校を卒業と同時に自動車会社に就職し、高度成長がけん引するように、車を造れば売 れる時代に入っていった。だが当時は自分でもマイカーが持てるとは夢にも思わなかった。現場に配属 された私は昼夜勤務に汗を流しながら、次々とラインオフされていく車を眺めながら、いつしか自分も 車を所有する思いを描いたのは入社して数年後だった。その後、車は一家に一台、一人に一台と瞬く間 に車社会の到来となっていった。
世間の景気は、一向に衰えを知らず、私が入社した自動車会社でも高校卒業の新入社員だけでも、数 千人が入社し、数十人単位で班毎に別れ、各工場の職場に配属されていった。
だが、今思えば当時、わずかな若者しか長くは続かなかった。職場では毎日のように退社していく姿 を見たし、わずかながら羨ましくも感じていた。退社理由は様々だった。昼夜勤務の仕事が辛い、寮の 食事がまずい。中には女の子が少ない、遊ぶところが少ない等様々な理由だった。確かに寮の食堂では 一塊になってテレビを観ていた。
私が定年まで勤めることができたのは、励ましてくれた先輩、気持ちを理解してくれた上司、そして 家族、高校時代の部活の辛さと、比較していたところが多く「あのころに比べれば」と、常に自分を見 失わずに済んだことだった。
結婚して家庭を築き、子供が生まれるようになって、どんなことがあっても会社を辞めない責任感ら しきものが芽生え、退社の考えは全くと言ってなかったが、定年が近いころから一つの会社に生涯を捧 げてよいものかと考えるようになり、職場の皆さんが、定年祝いのセレモニーのときでさえ、次にどん な仕事をしようかとワクワク感でいっぱいだった。自分の一つの目標が達成したからかも知れない。
私はあえて人事部が紹介する会社には行かず、ハローワーク(職業安定所)に足を向けた。2007年の 春だった。結局は数日前までお世話になった自動車会社の協力会社だったが、突然私が現れて驚いた先 輩もいた。その後の5年間は仕事遍歴だった。物流会社、奥様方に囲まれての肉マン工場、製鉄会社等、 様々な仕事に就いた。オーバーかも知れないが、多種多様の仕事を経験することが定年後の目標だった からだ。その間、多くの人に出会うことで考え方、生き方を学んだ。今思えば仕事社会に溶け込んでい ること自体、自分の生きがいだったのかも知れない。
ところがある日、突然の不整脈で心臓専門病院に駆け込み、心房細動と診断を受け、半年後には慢性 リンパ性白血病と言われ、そのとき医師に「お仕事はお辞めになったほうがいいですよ」とやんわり言 われたのを機に今は無職である。
3年前より家庭菜園でのんびり過ごしながら、無理をしない程度に汗を流している。幸い3人の子供 が自宅近くに住み、採りたての野菜を配る日々である。
時代の移り替わりに伴う情報社会は、若者の意識改革をも変革しつつあるように思うが、昨年の今こ ろは、自宅近くの国道で、深夜の零時ころになると、決まってバイクの爆音を響かせながら伊良湖岬方面に、集団走行をしていたが、この地方の暴走族も、今年は全くと言っていいほど鳴りを潜めている。若 者の意識が変わったとまでは言えないが、いろいろなことを経験しながら、青春の通過点を無事通り過 ぎて行ってほしいと思っている。