【 厚生労働大臣賞 】

【テーマ:さまざまな働き方をめぐる、わたしの提言】
愛のカタチ
東北芸術工科大学 企画構想学科 開 沼 明日香 20歳

私のお母さんは働き者。私が幼い頃から今も、ずっと働き者。お母さんの朝は早い。まだ私が寝ぼけている早朝から仕事へ行き、帰ってくるのは夜9時ころが当たり前。休日も夜勤で出勤するし、急患が来たら急いで家を飛び出していく。私のお母さんは看護師さん。


そんな働いてばかりのお母さんが、私は嫌いだった。


お母さんのことが嫌いなのではなく“働いてばかりなところ”が幼かった頃の私にとって気に食わなかったのだ。


小学校に入学すると、放課後に友達の家へよく遊びに行った。友達の家の玄関を開けると「おかえり」という声とともに夕食のおいしそうな香りがする。友人にとっては当たり前だった、帰ると部屋に明かりのついている光景、「おかえり」という優しい声、お腹を空かせるようなおいしい香り。


私にとっては決して当たり前ではなかった。


家に帰ったら真っ暗な部屋で、私の帰りを出迎えてくれる声も聞こえない。作り置きしてあるおかずを自分でチンして食べる。宿題をしたりテレビを見ながらひとりで母の帰りを待っていた。


それはたった数時間だったかもしれないが、あの頃の私にはとても長い時間に思えた。


私は友達が羨ましかった。友達はみんなお母さんと一緒に過ごす時間が長くて、愛されていていいなと思った。幼かった私は“一緒にいる時間”=“愛されている証”だと考えていた。だから、他の家とは違う自分は愛されていないと思うようになり、いつしかそれがコンプレックスとなっていた。


そしてそんな母に対して「お母さんは私に興味がないんだ」と考えるようになった。


私を愛してくれないで働いてばかりいるお母さんのことが嫌いになった。


中学1年生の春休み。東日本大震災が起きた。地震のあとの空には粉雪が舞っていた。学校にいた私は寒空の中、友人と身を寄せ合い家族の迎えを待っていた。続々と友人たちの家族が迎えに来る中、私のお母さんは来なかった。仕事で忙しいから迎えには来ないだろうと思っていたがこんな時くらい娘を第一に守ってほしいと、やっぱり考えてしまった。


数時間後、迎えに来てくれた父の車でお母さんの勤め先の病院へ向かった。沿岸部の近くにあるその 病院の外にはたくさんの救急車が止まっていて、仮設の大きなテントの中には多くの遺体が並べられているようだった。病院の中は人で溢れかえっていた。津波に流されたのか全身泥まみれでずぶ濡れの人や、担架で運ばれる人。


その中で慌ただしく走るお母さんの姿を見つけた。あれだけ必死な顔をして忙しそうに走り回っていたのに、お母さんはすぐに私を見つけた。少しだけ話してほっとした表情を浮かべると、またすぐに仕事へ戻った。


あのとき多くの人がお母さんに助けを求めていて、お母さんもそれに応えようと必死だった。少しも寝ることなく働き続けたお母さんが、家に帰ってきたのは震災の4日後だった。


自分の仕事を全うしているその姿を、当時の私は誇らしく思った。はじめて看護師ってかっこいい、そう思った。


こうして月日を重ねるごとに“嫌い”は“憧れ”へと変わっていった。働くお母さんに対しても、偉いなあと素直に思えるし愛されていないなんて思わない。寝ることが大好きなお母さんは私のために、ずーっと昔から寝る間も惜しんで働いてきたのだ。それを理解し始めてきた今、お母さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。


嫌いだったお母さんの働く姿。もしかしたら幼いながらにも本当は分かっていたのかもしれない。すべて私のためにやってくれていること、本当は小さかった私ともっとたくさんの時間を過ごしたかったこと。


世の中には様々な働く背中がある。その背中を見つめている人だって同様に様々だ。みんな誰かを想って働いている。自分自身を想って働く人もいるかもしれない。


働くお母さんの背中は、十数年後の今の私にこう教えてくれた。


働くことは、「我が子への無償の愛情表現」であるということを。

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