【 公益財団法人 勤労青少年躍進会 理事長賞 】
ある一瞬を永遠と感じるように、一つの言葉が永い人生を変えてしまうことだってある。
「医学部、受けてみたら?」
閑散な一人部屋の病室で、母が唐突に呟いた。
陽気で気さく、冗談が大好きで、家族を楽しませるのが上手な母。そんな母が真面目な表情で、私にそう言った。
「無理だよ」私は、即座にかぶりをふる。
「あら、どうして? あなた、医者になりたがっていたじゃない」
子どもの頃の記憶がパッと蘇る。複雑骨折をして泣きじゃくる少年と、それを包み込んでくれる一人の医師の姿があった。そのときの担当医の先生が優しくて、将来はその先生みたいな医者になると、私は小学校の卒業アルバムに書いた。
どうやら、それを母はまだ憶えていたようだ。
「そうだけどさ、でも...」
母の看病をしているうちに、一度は忘れかけた医者の道が、光り輝く。
目の前の安定したレールに、細い分岐点があらわれる。
けれど、そのとき、私は齢23。
ストレートで医学部に入っても30歳になる計算だ。
「もう、遅いよ」
大きな夢を追えるほどには、私はもう若くはなかった。
躊躇する私に、母は優しく背中を押してくれた。
「あら、なにかを始めるのに、遅過ぎるということはないわ」
母は、窓の外を眺めている。季節外れの雪が、しんしんと降り注いでいた。
しばらくして、母がまたゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、あたしの夢をきいて」「夢? お母さんの?」「うん、そう」「なに」「あなたがお医者さんになって、お母さんね、看病してもらうの」
そう言って、母は子どもみたいに、無邪気な笑顔を見せた。私は母の夢になにも言えず、ただ黙っていた。
怖かったのだ。
いつのまにか、母はすやすやと安らかな寝息をたてていた。
私は母を起こさないように、ゆっくりと肩まで毛布をかけた。
そして、次の日の朝方、母は静かに息を引き取った。
葬儀の間、私は母の言葉が頭から離れなかった。
そこで、私は決心をした。忘れかけた夢に挑戦しよう、と。
すぐに、実家の北海道から東京に戻り、予備校に通って医学部を受けた。1年ほど、二宮金次郎的生活をした。そして、運良く地元の医学部に合格することができた。
私は現在、医学部の6年に在籍をしている。
来年からは、母が入院していた病院で研修をする予定である。
人生は、バッターボックスに立つことが大事だと、どこかの偉い人が言っていた。
その通りだと思う。私は、母から夢をもらった。それはとても大きく、一人では叶えられなかった医者という夢。きっと、母がいなかったら、嘘にしていたことだろう。こんなに勇気を使えなかった。使い方も知らないままだった。私一人で見るにはとてもじゃないけど、大き過ぎた。母も見たから、現実になった。
私は医者という職業を通して、母と同じような苦しみを持つ患者に寄り添いたいと思っている。
それが、せめてもの母への恩返し。
研修先が決まって、母方の祖母に会いにいった。
「そうかい、そうかい。それはめでたいねぇ」そう言って、寿司やピザを食べ切れないほど祖母は注文した。それから、町内をわざわざまわって、孫の自慢をし始めた。
「うちの孫がね、医者になるのよ」
なりふりかまわず、祖母はマシンガンのように言葉を放つ。
「おばあちゃん、恥ずかしいからやめてよ」
私は苦笑いを浮かべ、祖母の背中越しに言う。
そのとき、眼前の驚くべき光景を見て、私は目を丸くした。
祖母が母に重なって見えたのだ。
─お母さん...! 私はただ呆然と、近所の人と話す母を眺めていた。
「あたしの息子がね、医者になるのよ。それでね、」「うん、うん。それで?」「それでね、あたしのこと、看病してくれるの」
いつかの母の言葉が、耳に反響する。
そのとき、二人の夢が叶ったような気がした。おのずと、口元が緩む。
「お母さん、夢叶えたよ」澄んだ空に呟き、私は少しだけ目を細めた。
冬なのに身体が火照って、何故だか上着を脱ぎたい気持ちになった。