【 入選 】
「過労死」。「過労自殺」。今や英語にもなったこの過労死によって、毎年多くの人が亡くなっている。僕は、国の生産活動の根幹を支える労働を蝕むこの問題について、今年卒業論文を書いた。
過酷のひとことでは言い表せない長時間労働と、それによって失われた多くの命の実態は調べるほどに私の胸を締め付けた。過労死した人数という数字で見れば、それは乾いた数字でしかないが、失われた一人一人は生身の人数であるということを改めて感じた。人間の限界を超えた仕事量に文字通り殺された人にとって、仕事とはどんな存在だったのだろう。
一方以前に、学校の「中学総合講座」という講習の中で、各方面で活躍する職人たちにお話を伺う機会があった。そば職人の方や、寿司職人の方、雅楽楽器の職人さんなど、どの方のお話も自らの職業に 対する誇りや思いが詰まっていて、「職に生きる人」としての在り方を教えてもらった。現在、職人として生きる人が減っているものの、生涯仕事に生きるという人生に強い魅力を感じた。お話を聞く中で、職人にとって仕事とは「人生をかけた挑戦」であると感じた。
働いたことのない僕の視点からでも、「職」というのは人生の大半をささげなくてはならないものだと感じる。人生100年と最近は言われるけれど、学校に通うのもせいぜい20代まで。その後は定年退職になるまで「労働」の義務が課される。やりたくない宿題を30分と続けるのだって苦痛なのに、したくない仕事を40年続けられるか。
同じ大人でも、仕事で死ぬ人と仕事に生きる人がいる。仕事を苦に感じる人がいれば、それを一生の誇りとする人がいる。この違いはどこから生まれる物なのだろう。この違いについて、卒論のために行ったコンサルタントの方への取材などを通じて考えてみた。
働きすぎの現場を数多く見てきた方からの取材で浮き彫りになったことは、労働者に短時間で効率よく働くという意識が欠けているということだ。
欧米では、企業と労働者の間で労働に関する取り決めが結ばれる。それに対して日本では、企業に就職することを主眼に置きすぎるあまり、自らの働く労働環境に注意が払われないというのだ。
長時間働けばよいものが生まれる。ならば先進国の中でも指折りの長時間労働をしている日本の産業がどうしてこうも苦戦するのか。職場でワークライフバランスが取れている方が、労働に対する意欲も上がるという統計もある。
冒頭でも取り上げたように、最近は法整備から働き方改革が進んでいる。無制限だった残業時間にも一応の歯止めはかかった。それでも働くのも働かせるのも生身の人間である。日本にあまたとある職場のすべてを、法の監視のもとにはおけまい。結局は労働の当事者たちが、うまい仕事との付き合い方を学ぶのが肝要なのではないか。
充実した生活と、やりがいのある労働のバランスが取れれば、理想的な社会にまた一歩近づくだろう。何も全員が仕事人間にならなくてはいけないわけではないのだから。昔の日本では、堅気の職人さんが理想で、今もその技術に支えられているのだろうが新しい働き方がそれに劣るのではない。二つは共存できるはずだ。
人は本来、「職人」であるのではないかとちらりと思う。職に生きるのではなく、職と生きるという意味で。