【佳作】
「一番大事なことは、自分がやりたいことをきちんと伝えるのはもちろんだが、なぜその会社でないと ダメなのかを論理的に伝えることだ」
今年の春、3つ歳下の弟が就職面接に行く際、先輩面でそんなアドバイスをした。
そうアドバイスする自分が、今の職に就くに至るまでに抱いた思想は、価値観は、つまりルーツは一 体何なのだろうか。自分が進んできた道をふと振り返ってみると、自分のことなのに、これが不思議と 面白い。
いつ頃のことだろうか。演劇というものに興味を持ったのは。そしていつだったか。興味の対象が日 本酒に変わったのは。そして不思議とそのどちらにも「嗜好品」という共通点があるのは単なる偶然な のか。
大学在学中は演劇サークルの活動にのめり込み、役者を目指していた自分。それがどういうわけだか、 今は全くジャンルの異なる日本酒業界の最前線で仕事をしている。
そもそも演劇に興味を持ったのは「世代・性別・国籍を問わず、人々を笑顔にする力」を感じたのが きっかけである。それがいつの間にやら酒を飲む年頃になり、気付けば飲み屋で父親ほど歳の離れた見 知らぬおじさんたちと楽しく話をしながら飲むという経験を数多くするようになった。
酒という「嗜好品」の持つ「境界を取り払う力」に惹かれたのは、ごく自然なことだったのかもしれ ない。
2年前の5月、東京の日本酒イベントで知り合った青森県の酒蔵の跡取りに誘われ、今年の1月に転 職・移住した。以前は東京の酒類専門商社で働いていた。
現社長である跡取りは、昨年の5月、先代社長、つまり彼のお父さんの急逝に伴い、跡を継いだ。彼 も若く今年で30歳、私はさらに若く25歳になる。転職の決め手は彼の酒造りの思想と看板商品の味わい が、自分の価値観のドストライクだったこと。彼との出会い、そしてその後まもなく訪れた先代社長の 急逝。若い私の中で、運命の歯車が噛み合い、高鳴る鼓動と未来への期待、胸の中で沸々と湧き上がる 熱意、それらのエネルギーで、新たな時を刻み始める時計のごとく回り出す。そんな気がしたのだ。
群馬県出身、都内の大学を卒業、東京の企業へ就職。青森に縁もゆかりもない私の一大決心。若さゆ えのエネルギーが背中を押した。周囲の反対を押し切ってまで決めた自分の新たな人生はスリリングか つ魅力的。しかし向かう先には、明るい未来しか見えなかった。
日本酒という「嗜好品」を売る仕事とは、普遍的な正解がなく、なんとも奥深い。
例えばオフィスに置くコピー機の営業マンであれば、現行納品されている競合他社と比較して、同じ 画質の印刷物を毎分10枚多く印刷できるコピー機が自社商品であれば、万人に評価されるべき普遍的な強みになる。
しかし、酒の味わいとなるとそうはいかない。感覚・好みは人それぞれ。つまり正解がないのだ。だ が奥深いのはこの「正解がない」という部分であり、考えようによっては「万人の正解」ともなり得る のだ。
酒のように味覚や嗅覚などの「感覚で楽しむもの」は他の感覚とも密な関わりを持っているように思う。
オーセンティックなバーで国民的アイドルの音楽が流れていては興ざめであろう。やはりムーディー なジャズでも流れていれば、より美味く感じるものだ。
顧客に商品提案する際、味わいの説明からするのではなく、なぜこの会社に入ったのか、この仕事を しているのか、という「ストーリー」を話すことを心がけている。「感動」で顧客の「心」にアプローチ し、その後「感覚」にアプローチする。少なくとも、不味いというリアクションは返ってこない。そん な仕事だ。アプローチ方法にはこれ以外にもあるだろう、と考えながら、日々試行錯誤を繰り返している。
ふと気付けば、奥深き「嗜好品」について「思考」し「試行」する自分の人生もまた、私にとって「至 高」の「嗜好品」となっていたのである。