【佳作】
27歳。2度目のガン。手術を経て、私は両方の睾丸を失った。
勤め先は農業法人。身体が資本といわれる業界。
当時は入社1年目。積み上げてきたものなど何も無かった。
「どれだけ時間がかかってもいいから、戻ってこい」
そんな私に社長は言った。
私は期待に応えるべく職場復帰を決意したが、厳しい現実が待ち受けていた。
2度の手術による体力減退。加えて更年期障害による眩暈が私を襲った。
無事に退院できたものの、日常生活を送るだけで精一杯。
重いものは持てず、持久力は無いに等しかった。
自分自身でホルモンを賄えないため、定期的な投薬治療を必要とした。
ホルモンが少なくなってくると様々な体調不良に襲われ、症状が悪化すると寝床から起き上がろうと身 を起こす動作で目を回し、動けなくなった。
健康。たった二文字のそれが、果てしなく遠い存在に思えた。
リハビリを重ね、なんとか職場には通い始めたものの、会社の歯車として機能することはなく、ただ、そ こに居るだけの存在。何も為せず、何も成せなかった。
自然と誰かから仕事を与えられることは無くなっていた。
職場に居続けるために、私は変わらなければならなかった。
「どんなことをやってもいい。4年以内に結果を出してみろ」
そんな時にふと思い浮かんだのは、入社した際に言われた社長の言葉だった。
気づけば入社2年目。ここが踏ん張りどころと思い、私は結果に拘ってみることにした。
まずは社内のごみを拾って歩くところから始めた。ごみを探しながら、自分にできることを探し、見つ けた仕事は貪欲に取り組んだ。何をすれば会社の利益になるかを常に考え、気づいたことはそのままに せず、すぐにできることであれば即時行動した。
今自分ができることが何で、何が会社に足りず、そのために自分は何を為すべきか。
意識して行動することで、先が見えなかった私の道は拓かれていった。
誰からも仕事が与えられないということ。それは裏を返せば、自分で責任を持つのであれば何をやって もよい、ということだった。もちろん、それには常に結果を出し続けなければならないという重圧が伴 うが、それでも私は前に進むことを選択した。
そうして1年経って気がつけば、私は広報課の責任者となっていた。
単一の農家としては、石川県内でも類を見ないほどブロッコリー畑を大規模に展開する農業法人。その 経営規模に対して、全くと言えるほど追いついていない会社の知名度を問題視した私は広報活動を提案 し、全体会議での承認を経て職場に広報課を創設。そして今尚、会社の知名度を上げるべく、広報担当としての任を全う中である。
人はそれぞれに事情を抱えており、働き方は各々の事情に合わせて千差万別であるべきだ。
2度目の手術から早数年。筋力は年相応に回復しつつあるとはいえ、持久力は相変わらず乏しい。10日 に1度の通院も今尚継続中だ。他の従業員と同じように畑に出て農作業しようにも身体が追いつかない だろう。しかし、それでも農業法人で正社員として働けているのは会社の柔軟性があってこそだと思う。
社会復帰は1人ではできない。
待つ覚悟と挑む覚悟。社会復帰にあたっては、雇用者と被雇用者にそれぞれ覚悟が求められる。
雇用者は被雇用者が這い上がってくるのを辛抱強く待たねばならず、被雇用者は雇用者の待つ覚悟に甘 えることなく挑み続けなければならない。どちらが欠けてしまえば、社会復帰への道は拓かれない。
私の復帰に関して言うなれば、私はただ運が良かっただけなのかもしれない。しかし、だからこそ社会 復帰できる環境が「たまたま」ではなく「当然」である世の中となることを、「たまたま」復帰できた一 例として、切に願うばかりである。