【 奨 励 賞 】
「おはよう!冷蔵庫にあるおかず温めて食べてね。父と母より」朝起きて誰もいない静かなリビング に向かうと、テーブルの上には両親からの置手紙が置いてある。毎週土曜日、私にとって当たり前の光 景だった。地元の病院で働いていた両親は土曜日出勤が多かったため、休日に一緒に過ごす時間が少な かった。幼い頃の私は「私よりも仕事を大切にする親」だと思っており、共働きの両親が嫌いだった。
休日の留守番にも慣れた中学1年生の時。私の地元福島県で東日本大震災が起こった。私の住んでいた 街は幸いにも、海岸から遠かったため被害は少なかった。そのため、震災当初は津波で被害にあった被 災者や、原発で非難を余儀なくされた被災者を受け入れる立場となった。余震が続き、限られた物資の 中で生活する日々。そんな不安がある中でも私の両親は働き続けた。毎日毎日遅くまで。私は何故、自 分自身が危険である中でも働き続けるのか、そう両親に疑問を抱いていた。ある時、お酒で少し酔って いた父がこう言った。「毎日大変だし...正直、患者さんと向き合うことが辛いと思うこともある。でも辛 い時、苦しんでいる人達がいる時だからこそ誰かがやらなくてはいけない。」父のこの言葉は私が夢を持 つきっかけをくれた。
東日本大震災から7年。私は山形にある大学で企画構想について学んでいる。この学科はアイデアの力で人を幸せにすることを目標としており、ここを志望したのには「アイデアの力で被災者を救いたい」 という理由があったからだ。私は震災当初、患者さんのために働く両親の姿を見てかっこいいと思う反面、 自分は何もできずにいた。悔しさだけが募っていったある時、ニュースを通して災害関連死があること を知った。災害関連死とは災害の直接的な被害ではなく、避難生活のストレスによって病気にかかった り、持病が悪化するなどして死亡することである。この中には自殺も含まれている。震災から時が経ち、 一見すると被災地に復興の兆しが見える裏側で、まだまだ心の病気と戦い続けている被災者がいること に気がついた。私はこの事実を知って、被災者が震災で負った「心の傷」を治す人になりたいと思った。
7回目の3.11を迎えた日。私は初めて被災地に足を踏み入れ、主に南相馬、浪江町、双葉町といった 避難区域を訪れた。快晴が広がる日曜の住宅街。街には人ひとり歩いておらず、真っ黒に汚れている洗 濯物や庭に転がる三輪車が、あの日から時が止まっていることを物語っていた。一瞬にして日常が奪わ れた現実を目の当たりにし、被災者の事を想像したら胸が苦しくなった。震災に改めて向き合い、辛い 気持ちになったのと同時に被災地のために夢を叶えたいという思いがより一層強くなった。父が言って いたように苦しんでいる人達がいるからこそ誰かがやらなくてはいけない。両親と同じように私は、そ の「誰か」になりたいと思う。冒頭に私は共働きの両親が嫌いだとつづった。しかし、両親が働くこと の意味を教えてくれなかったら、今の私は夢を見つけられなかっただろう。
両親は「医療」で。私は「アイデアの力」で被災者を救う人になりたい。