【 奨 励 賞 】
私は「怒る」ことが苦手である。それは私が善人でも穏やかな性格の持ち主でもなく、ただ単に面倒 くさがりだからである。喜怒哀楽の中で「怒」が最もエネルギーを消費する。それならば怒りの感情が 向きそうな対象を、忘れたり見て見ぬふりをする方がよっぽど楽だ。
今の職に就いてはや9年。小さな会社だが私にも直属の部下を持った。彼女はとても前向きな性格で、 仕事で失敗しても落ち込むことなく笑顔で対処していた。度々のトラブルはあるものの、陰でサポート しながら良好な先輩と後輩の関係を築けているという自負があった。
しかし、それは私の思い違いだった。
ここ数か月、いつも天真爛漫な彼女の表情が塞ぐことが多くなった。傍から見ていても、仕事がうまくいっていないのは明らかだった。彼女は良かれと思って行ったことが、裏目に出ることが増えた。そし て突発的なトラブルに焦り、やみくもに行動することが増えた。もっと早くに気付いてあげればよかっ たのだが、彼女はこぼれる寸前のコップの水のように、いっぱいいっぱいになっていた。
そんな折、彼女の失敗でお客様から直接お叱りを受けることがあった。「私の責任でもありますので」 と彼女をバックヤードへ促そうとしたが、彼女がそれを拒んだ。「私にはお叱りを受ける義務と責任がある」と頑なだった。最終的にはお客様の怒りも静まり、温かい言葉も掛けて頂いたが、歯を食いしばっ た彼女を見て、私は今までの過ちを思い知った。
その日のランチに彼女を誘った。とてもパスタやピザなど食べられるような精神状態ではなさそう だったが、イタリアンレストランで向かい合い、意を決して伝えた。
「あなたのがむしゃらで行動的なところは、すごく良い所だと思う。けれど一部のお客様にとっては、無鉄砲で向こう見ずな人だと思われるときもある」
彼女は俯いたりなどせず、私の目を真っすぐ見つめていた。
「トラブルが起きたらすぐに行動するのではなく、まず何が起きているのか正しい情報を集めて、そし て原因を把握しよう。それから対処方法を考えよう。分からなかったら私や周りの人を頼ればいいんだ よ。あなた一人で行動したことが、会社全体の責任になるからね」
私の声は緊張で震えていたと思う。今まで指導といっても業務的なものばかりで、こうして彼女の内 面に触れて助言することはなかった。私だって立派な人間でもないのに、という恥じらいがあった。そしてやはり、叱ることによって嫌われて、ぎすぎすした関係になるのが面倒だったのだ。
「今日は他にも伝えたいことがあって。今まで指摘しなきゃいけないことから逃げていて、ごめんなさ い。先輩らしいこと、何もできていなかった」
その時、彼女の目から涙があふれた。コップの水がこぼれた瞬間だった。
「ここ最近ずっとうまくいっていないのは自分でも分かっていて。でもどうしたらいいか分からなくて、 余裕がありませんでした。誰かに相談すればよかったのに、そんな勇気もなくて。先輩にも見放された と思っていました」
そして彼女はこう続けた。
「叱ってくれて、ありがとうございます」
その言葉を聞いて、私の緊張はふっと解けた。代わりに不甲斐なさがどっとあふれてきた。情けなく も、レストランで後輩と二人、わんわんと泣いてしまった。
そして今、彼女の口癖は「教えてくださーい!」である。私は笑って「少しは自分で考えなさーい!」と答えて指導する。一度聞いたことは忘れないように、とメモを取る彼女の必死な横顔を見て、あの日 ぶつかりあって良かったと心から思う。
『何かあったらいつでも言ってね。泣くときは一緒に泣こうね。もうあなたをいっぱいいっぱいにはさせないからね』
そんなセリフは、イタリアンレストランで無邪気にピザを頬張る彼女には、恥ずかしくて言えないけれど。