【 奨 励 賞 】
「ひとつの幸せのドアが閉じる時、もうひとつのドアが開く。しかし、よく私たちは閉じたドアばかりに目を奪われ、開いたドアに気付かない。」
学生の時に偶然出会った、ヘレンケラーの言葉である。
私は芸術大学を卒業後、高校の美術教師になった。
「みんなが、宇宙飛行士になれるわけじゃないよ。」と、子供のころ言われたことはないだろうか。
私にとっての宇宙飛行士や閉じたドアは、漫画家になることだった。
「先生は、昔から先生になりたかったの?」と生徒に聞かれたことがある。
若かった私は、生徒の問いにとても素直に答えた。
将来の保険で、教員免許を取得していたこと。
学生の間に、プロ漫画家としてデビューできなかったこと。
卒業後に親の援助を受けるつもりがなく、生活費を稼ぐ必要があったこと。
漫画家の先生のアシスタントを経験し、具体的に制作現場と収入面の厳しさを知っていたこと。
様々な分野で就職活動をしたが、就職氷河期と呼ばれ、内定が出たのが2つの高校のみであったこと。
まさか、本当に教員免許を使用することになるとは、大学4回生の冬まで思ってもいなかった。
卒業後は定職に就かず、親からの金銭の援助で、漫画家を目指すという選択肢はあった。
自分が選ばなかっただけで、誰かに強制もされていない。
このような話をしたうえで、生徒には夢を追いかけて欲しいと伝えていた。
現場で体感する、生徒たちの青々と緑が生い茂るような若さ。可能性の塊だった。
あと5年、何か全力で挑戦して失敗しても、当時の私と同じ20代前半。
例え葉っぱが、ちぎれても枯れても、次の新芽が必ず出る。
君たちは今そういう存在です、と。
ひとりひとりが、私の回答をどう感じたのか聞いたことはない。
純粋な生徒からすれば、このような「逃げ出した奴の言いわけ」にはがっかりし、怒りを覚えたかもしれない。
実は就職後も漫画制作は続けていたが、私は心身ともにパンクしてしまっていた。
教師という仕事も、漫画の制作も、なんとなくではこなせなかったのだ。
原稿の〆切が近づき、無理をした結果、職員朝礼で居眠りをしてしまったことがある。
2重生活で疲労がたまり、生徒にイライラしてしまったこともある。
出版社の担当編集者からは「先生なんかになったら、両立できないのは目に見えていたじゃないか!」 と叱られた。(補足すると、この方は親身に作品と私に向き合ってくれていた。今でも申し訳なく思って いる。)
限界だと感じた。
それから、生徒にも両親にも、漫画を潔く諦め、地に足をつけている大人を演じた。
演じていないと苦しかった。
夢を追いかけなくなった大人が、子供たちに認められるか怖かったのだ。
自分なりに、職業に向かい合うための「覚悟ごっこ」だった。
でも、いつの間にか休み時間に、生徒と黒板に漫画のキャラを描くようになった。
過去に暴力事件を起こした男子生徒と、今週のジャンプの話をしていた。
生徒が代わる代わる、オススメの漫画を貸してくれるようになった。
漫画やアニメが好きだと自己紹介をすると、顔を向けてくれる生徒が増えた。
あるコミュニケーションが困難な女子生徒の鞄に、アニメキャラの缶バッチを発見し、それをきっかけ に話ができたこともある。
新米教師として、何もかも未熟だった私を、気がつけば漫画が支えてくれていた。
閉じたドアにも意味があったなんて。
数年後、私は別の教育機関に転職することになった。
報告をした時には、数名の生徒たちが泣きだして心底びっくりした。
仲の良い生徒は職員室に手紙を届けてくれ、クラスで寄せ書きも用意してくれた。
ずっと苦しかったけど、生徒たちが、私のもうひとつのドアが開いていたことを教えてくれた。
漫画家を目指していてよかったし、先生になって心からよかった。
それが今の自分なのだ。