【 奨 励 賞 】
僕には夢が無かった。きっと普通に就職して、結婚し、家庭を築き、家族と過ごしていくのだろう。そ んなぼんやりとしたイメージで日々を過ごしていた。
何となく、面白そうな学科があると選んだ大学の生活では、就活の場面になっても、僕は相変わらず、 将来に対してのイメージが乏しいままだった。
しかし、そんな僕にも転機が訪れる。それはある喫茶店との出会いだった。
初めは休憩するために入っただけのその喫茶店。しかし、その居心地の良さがすっかり気に入ってし まい、元々コーヒーが好きだったこともあり、気が付けば一人でも通うようになっていた。
そしてついに、自分で喫茶店を経営することに憧れるようになった。
僕はそこで初めて自分の将来に対しての夢と呼べるものを見つけた。
そこからは進む方向が明確になった。なるべく早い段階で実現させようと、30歳までに開店すると決 めた。
業界未経験だった僕が就職先に選んだのは、都内で飲食店運営をするベンチャー企業。若い内から責 任のある仕事を任せて貰えそうだからという理由で入社を決めた。
入社後は、自分が30歳を迎える年にスポットを当てて働いた。上司や仲間にも恵まれ、飲食店運営に 関する知識やノウハウを、ある程度身に着けることが出来た。そこで知り合った恋人もでき、皆僕の夢 を応援してくれていた。
『自分の店を経営しながら、彼女と結婚して幸せな家庭を築く』というのが僕の新たな夢になってい た。
しかし、29歳になった年、僕はこれまでの人生で最大の選択を迫られることになる。7年間付き合った彼女に別れ話を切り出されたのだ。動揺を隠しきれない様子で理由を尋ねると、彼女は泣きながら僕 に謝った。
「本当にごめんなさい。ずっと応援してきたけど、今は心の底から応援できなくなっちゃったの」
頭の中が真っ白になった。
「ずっと夢だった自分のお店を出して欲しい。でも、出して欲しくない」
この時、僕は自分が本当に情けなくなった。大切な人にこんなセリフを言わせてしまった。どれだけ 自分よがりだったのだろう。会社を辞めて独立するということは、当然リスクも背負うことになる。自 分の中では納得出来ていたことが、彼女の中では消化しきれていなかったのだ。そして、僕は苦渋の決 断をする。
「僕には夢がある。自分の人生で初めて夢を持つことが出来た。その夢に手が届くかもしれない状況で、 それを諦めることは出来ない」
一つの夢の為に、諦めなきゃならない事が恋だとしたら、それはかくも切ない物なのかと、思い知ら された。
それでも、時間は止まることなく進み続け、30歳になった現在、沢山の想いを胸に、ついに念願の喫 茶店を開店することが出来た。
自分が作った料理で喜んでくれるお客さん。毎日のように来てくれる常連さん。やりたいと思った事 は自分の裁量で全て出来る。自分が思い描く理想の店に近づけるために日々追究し続ける。
経営者となり、およそ学生の頃とはかけ離れたような自主性を持って、充実した日々を送っている。
それでも、たまに思い出してしまう。あの時、別の選択肢を選んでいたらどんな人生になっていただ ろうか。
道というのは、自分が歩いてきた後を振り返った時に見える足跡の事だと思う。
目の前の道なんて無くて、自分が歩いた後にだけその痕跡が残る。その良し悪しを評価するのは他な らぬ自分自身だ。
失敗するかもしれない、何も報われないかもしれない、それでも自分が生きた証を残すために、前に 進むことは止められない。
願わくは、自分が残してきた足跡を、最後には笑って振り返れる様になりたい。よくぞここまで歩い てきたなと、自分を労ってやれる様になりたい。
過去に心残りはあるかもしれない。生きるために仕事をしているのか、幸せになるために仕事をして いるのか、分からなくなる瞬間もあるだろう。それでも、今日も僕は前を向いて足跡を残し続ける。未 来の自分に笑って貰えるように。